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祝福の絶対価値と神氏族的メシヤの責任完遂 48
二人が協助し合って行く道

 今日も「一日の出発のみ言」をお届けします。
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(光言社・刊『祝福の絶対価値と神氏族的メシヤの責任完遂』より)

第一章 祝福の絶対価値

第四節 祝福家庭のあるべき姿

(二)み旨を中心に一つになる夫婦⑤

 自分が相手を引っ張っていくのか、相手が自分を引っ張っていくのか、いずれにしても二人のうちで一人でも先に行かなければなりません。一人は前を行き、もう一人は従っていく立場に立ってこそ、最後までみ旨の道を行くことができるのです。そのように二人が協助していかなければ、み旨の道を行くことはできません。

 それでは、ここで誰が主体になり、誰が相対になるのでしょうか。信仰生活において、主体になり得る人が自分の妻ならば、たとえ自分の妻だとしても侍っていかなければなりません。このような生活をしなければなりません。ここでは、妻に絶対服従しなければならないのです。男性だといって大口をたたいてはいけません。

 また、女性も同じです。男性が主体となって責任をもっているのであれば、外的な問題をもって男性に何だかんだと言ってはいけません。お金も稼げず、格好も悪く、能力がなくても、それが問題ではありません。問題は、み旨に対してどれくらい忠誠を尽くせるかということです。互いに自らの生命の中心になれるかということが問題だというのです。

 これを重要視せずに、自分が願う外的な条件を求めていった人々を見てください。必ず結果が良くなかったのです。ですから、もし個体が願う相対的基準ではなかったとしても、落胆してはいけません。その人のみ旨を思う心が自分よりも勝っていれば、その人を通して世界を復帰していこうと思わなければなりません。そのようにできる男性、そのようにできる女性を求めなければならないのです。

 外的な形態を備えて、ぶらぶら遊んでいる学士や博士よりも、むしろ純真で純朴な農村出身者たちのほうが、より福になるかもしれないのです。自分を主張して大口をたたいている人よりも、ただ黙々と引っ張れば引っ張るほうに行き、またどこかに置いておけば、永遠にその場を守ることができる、そのような人が天にはより必要だというのです。(301821970.3.22

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 明日は、「三代を連結させる」をお届けします。