2023.06.20 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 272
キリスト教と日本(51)
キリスト教独立伝道への道
ナビゲーター:石丸 志信
1888年に米国から帰国した内村鑑三は、同志社の新島襄からの招きを断り、新潟の北越学館で教壇に立つようになった。
日本で初めてのキリスト教的学校であることに引かれ、意気揚々と聖書を講じた。
愛国心と独立精神にあふれるエレミヤの預言を語る内村に学生たちは強く影響を受けたが、学校の経営陣との対立は避けがたく、内村は早々に北越学館を辞することになる。
東京に戻った内村は、東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校などで教え、教育者としての道を歩みだした。
良縁に恵まれ2度目の結婚をしたのもこの時期である。
次いで、第一高等中学校の嘱託教員となるが、いわゆる“不敬事件”によって、一高からも追われ社会的に非難を浴びることになる。
不幸なことに、心労と肺炎のため療養していた内村を献身的に看護していた妻が今度は肺炎にかかり急逝した。これは内村にとって大きな痛手となった。
こうした試練が一時に内村に襲いかかった時、彼はキリスト者としていかに耐え、いかなる慰めを受けたのか。
その答えを処女作『基督信徒のなぐさめ』として世に送り出した。
続けて、『求安録』『余は如何にして基督信徒となりし乎』『後世への最大遺物』など、代表的な著作を次々と出版した。
評論家としての名を上げていくが、彼が最終的に見いだした「天職」はキリスト教独立伝道の道だった。
40歳の頃に「無教会主義」を標榜(ひょうぼう)し、聖書研究会を主宰し聖書講義をスタートさせ、無教会運動の基礎を築いていく。
内村は『聖書之研究』を発刊し、会員を集めて自宅で聖書講義をするのが主たる活動だった。
1907年には大阪の香料商、今井樟太郎の遺志により未亡人となった信子夫人から寄付が寄せられ、東京新宿・柏木の自邸内に聖書講堂が建設された。
「今井館」と名付けられたこの講堂が内村の終生の活動場所となった。
今井館は、内村の没後区画整備対象となり取り壊されることになったが、弟子たちの奔走で目黒区中根に移築され、その面影を今に伝えていた。しかし2022年、文京区本駒込に新築移転する際、この建物は解体されている。
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