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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(110)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
七、生命と愛と理想を懸けて

▲金元弼先生

「父母の日」

 世の中にはいろいろな日がたくさんありますけれども、真の意味での「父母の日」というのはありませんでした。「父母の日」というのは、今まで人類と神が願ってきた日であることを忘れてはいけないと思います。

 私たちが考えてみても、個人においては個人の日があり、国においては国の始まった日があります。神もこの世を造られてから、その時に「神の日」、「父母の日」、そして「子女の日」、「万物の日」が始まったはずです。けれども、人間の堕落によってこれらの日を、すべて失ってしまいました。

子女を通じて神の創造を知る

 神は創造の理想を実現しようとして、御自身のすべてを尽くして、この世を造り給うたのでした。そこに、神の生命と愛のすべてを、そして神の理想を懸けて造られたのです。計り知れない苦労の中で造られました。

 しかし、堕落して以来の人間は、その数がいくら多くても、人間として数えることはできないのです。ですから、ない世界に、ある世界を造らなければならず、そういう再創造の苦労を繰り返さなければならないのが、神の復帰摂理なのです。神がいかにして、いかなる過程を通じて世界と人間を造り給うたかについて、考えてみたいと思います。

 神がこの世をどのように造り給うたかは、見たこともない私たちにとっては、憶測もできないのです。神はいかに人間を愛しているのでしょうか。神は人間に子女を与えることによって、子女を愛することを通じて、神の心情を知らせようとしたのです。

 一人の子女をもつことは、それほど難しいこととは思われません。けれども、いかなる子女を生むかとなると、大変難しいのです。これをしくじったとなると、生涯尽くしても、それを補うことはできません。だからといって、殺すこともできません。生まれた子供が障害をもっていた場合、どうしますか。こういうことを考えてみると、生命を生むということは大変難しいことなのです。

 しかし、私たちの善を中心とする基準によって良い子が生まれるということは、長年の経験を通じて人々は知っています。

 子を生む前に、主体と対象の各自が、主体は主体として、対象は対象として、善を中心として心と体が一体になるようにします。対象の立場に立っているエバは、善を中心として心と体が一つになるようにします。そして、この主体と対象がお互いに善を中心として一つになるようにします。そういう善を懸けて子供をつくる仕事が始まるのです。

 ですから、子供を生む前の仕事としての時間があります。その時間のある時に、汚れたものを見たり、考えたりすることは、非常に警戒しなければなりません。おなかに子供をもっている母親は、汚れたものを見たり、苦になることを考えたり、そうした行動は許されません。そういう母親に対して、父親になる主体も、心を痛めるようなことは絶対に許されません。そのような時間を経過して、初めて子女が生まれるのです。

 このようにしても、なかなか立派な子女が生まれてこないのです。そうであれば、どれほど人造りというのは難しいことでしょうか。良い子女ということになると、難しいことの中でも、一番難しいことなのです。ですから、神は人造りがいかに難しいかということを人に教え、また人造りのように、物を造っていかなければならないということも、私たちに教えていらっしゃいます。

 神がどのようにこの世を造り、人を造ったかということは、子女を通じて、どれくらい神が尽くされたかということが推測されるのです。

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 次回は、「自ら成したという立場に」をお届けします。


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