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シリーズ・「宗教」を読み解く 268
キリスト教と日本㊼
米国に渡った新島襄

ナビゲーター:石丸 志信

 幕末から明治にかけて来日した米国宣教師の感化を受けた青年たちがキリスト教徒となり、横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドなどを形成し、近代日本のプロテスタント教会の基となっていった。

 一方で、その流れに乗らず、自ら米国に渡り、キリスト教の根差した社会に身を置き新たな信仰を身に付けていった人物がいた。同志社英学校、後の同志社大学を創設することになる新島襄がその人である。


新島襄ウィキペディアより

 新島襄、本名七五三太(しめた)は、天保14114日(陽暦1843212日)、上州安中藩士・新島民治の子として江戸に生まれた。
 幼少期には蘭学を学び、元服してからは軍艦教授所に通い、数学や航海術を学んでいる。その頃、江戸湾に停泊しているオランダ軍艦を間近に見てその威容に強い衝撃を受けている。

 19歳の時、備中松山藩の購入した洋型帆船「快風丸」の乗船が許され航海実習を経験。その後、海外への関心が高まって、英語も学び始めた。
 「快風丸」に2度目の乗船を許された新島は、この航海の目的地・函館まで来ることができた。当時すでに開港していた函館では、ロシア領事館附属礼拝堂司祭であったニコライ司祭と出会う。

▲ニコライ司祭(ウィキペディアより)

 新島がニコライ司祭に『古事記』を読み、ニコライ司祭は新島に英語と世界情勢を教えた。
 ニコライ司祭は新島を自宅に住まわせ、至れり尽くせりだったという。

 ロシア正教の修道司祭で日本への布教を志していたニコライ司祭にとっては、新島を導き、ロシア正教の信仰を身に付けてほしいと願った。
 しかし新島は米国への憧憬(しょうけい)が強く、国禁を犯してでも米国に渡る決意を固めた。

 ニコライ司祭らの助けもあって、21歳の夏、彼はかねてからの計画を実行。日本を密かに脱出し、上海を経て、米国の国土を踏んだ。
 まだ、英語もよく話せず、米国でのなんのつてもないままの旅は不安も大きく、船中でも苦労が絶えなかった。



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