2023.04.23 22:00
ダーウィニズムを超えて 3
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。
統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著
第一章 進化論を超えて
―新創造論の提唱―
(二)生物はデザインされたものか
◯進化論
ダーウィンによれば、生物は絶えず変異しているのであり、変異した個体の間で生存競争が行われ、その中で生存に適しているものが自然選択(自然淘汰〈とうた〉ともいう)によって生き残る。そういうプロセスが長い間、行われることによって生物は進化していくという。ここで変異とは、何ら目的とか計画に基づくものでなく、全く偶然のものであって、それは「ばらつき」とか「ゆらぎ」というようなものである。ダーウィンのいう変異とは、実は遺伝しない彷徨(ほうこう)変異であったが、後にド・フリース(Hugo De Vries, 1848-1935)によって、固定されて遺伝する変異が発見され、「突然変異」と名づけられた。いずれにせよ、生物はデザインされたものではないのである。
◯創造論
神はすべてのものの創造主である。ダビデが神に「あなたの目はまだできあがらないわたしのからだを見られた」(詩篇139・16)と言っているように、神は被造物を造る前に、すでに被造物の構想をもっておられたのである。したがって、生物は神によってデザインされたものである。
◯新創造論
すべてのものは神のロゴス(言〈ことば〉)によって創造された。ロゴスとは、被造物に対する神の構想、設計図である。したがって、生物は神によってデザインされたものである。
それでは生物がデザインされたものか、否か、いくつかの例を挙げて検討してみよう。
(1)キリンの首
キリンの首はなぜ長いのだろうか。進化論は次のように説明する。キリンの先祖は首はそんなに長くはなかったが、首の長さにばらつきがあった。彼らは争いながら木の葉を食べていたが、首の長いものは上のほうまで木の葉を食べられたから有利であり、首の短いものは不利であった。したがって、首の長いものが生き延びた。すなわち首の長いものが自然によって選ばれたのである。そのような生存競争と自然選択を代々繰り返しているうちに、キリンの首はどんどん長くなったというのである。
しかし、首が次第に長くなったことを示す中間化石の不在から見て、キリンの首は次第に長くなったという進化論の立場は否定される。さらに、サイエンス・ライターの金子隆一が指摘するように、もっと困難な問題がある。それがワンダーネットと呼ばれる器官の存在である(*2)。キリンの首は長いため、血圧は高く、キリンが水を飲むために頭を下げると、重力によって血圧が急激に上がり、脳溢血(いっけつ)を起こす危険性がある。そこでこれを防ぐために、血が脳に達する部分にワンダーネットという網状の血管が広がっていて、血圧を分散する仕組みになっている。したがって、首が長くなると同時にワンダーネットを備えなくてはならないのである。しかしキリンの先祖において、首の形態のランダムな変化の中から、自然が、長い首とワンダーネットを同時に選び出すというのは、どう考えても無理がある。さらに驚くべきことに、現存するキリンの祖先形の動物であるオカピの脳には、キリンのように首の長くない彼らには必要ないはずなのに、すでにワンダーネットが備わっているという。どうして必要のないワンダーネットがオカピにあるのか、自然選択では説明のしようがない。
アフリカの草原では、キリンはアカシアの木の葉を食べている。進化論の主張するように、首の短いものは生存競争に敗れて滅びていったとすれば、首の短い動物は、もはや存在していないはずである。しかし実際には、キリン、ジェレヌク、インパラ、キルクディクディクというように、最も首の長いものから、次第に短いものもいて、彼らはそれぞれの高さに応じて、アカシアの木の葉を分け合って食べている。したがって、自然選択によってキリンの首が長くなったのではなく、キリンは初めから首の長い動物として造られたと見るべきである。
さらに、キリンの首の骨組みはとても頑丈にできていて、雄同士が首でぶつかり合いながら闘っても、首が折れるようなことはない。したがって、短かった首が、上を向いて木の葉を食べているうちに、次第に伸びていったというようなものではありえない。ただ伸びただけの長い首では折れやすいであろう。長い首の骨格に対しては、力学的に衝撃に耐えられるような設計図が必要である。
(2)目の問題
次に、創造か進化かという論争において、中心的なテーマになった目の問題を取り上げてみよう。脊椎動物の目のように、複雑な機能と構造をもつものが、ランダムな変化の中から、いかなる自然選択によってできたのか、全く説明は困難である。
ダーウィン自身、「(極度に完成化し複雑化した器官である)目が自然発生によってつくられたであろうと想像するのは、このうえなく不条理に思われる(*3)」と率直に告白したのであった。ところが彼は、単純な光感受性のある点(細胞)から洗練された人間のカメラ型の目に至る進路の経路を示すことにより、目が進化によってできたものであると主張した。
しかし博物館で、自動車が年代順に古いものから新しいものという順序で並べられているのを見ても、誰も、走る競争をしているうちに車が進化したとは考えない。車は技術者の絶えざる創造力の投入によって発展したのである。同様に、単純な感光点から高級な目まで並べてみても、それが進化の証拠とはなりえない。実際、目が発展するそれぞれの段階が大きな飛躍であって、段階を示すだけでは進化といえないのである。科学ジャーナリストのリチャード・ミルトン(Richard Milton)も次のように言う。
現代のダーウィニストはたいそう楽観的な考えをもっているようだ。光を感知する細胞といった進化の初期段階における基本的な革新さえ起きてしまえば、視力の累積的選択がいくぶん起こりやすくなるという。しかし光を感知する組織が存在しても、水晶体や虹彩のメカニズムや瞼(まぶた)などに関する突然変異の起こりやすさには何の影響も及ぼさない(*4)。
しかも生化学者のマイケル・ベーエ(Michael J. Behe)が指摘しているように、単純な感光点が、そもそもどこから来たのか、ダーウィンは説明しようとせず、目の究極的な起源の問題は放り出しているのである。実際、感光点それ自体、単純なものでない。ダーウィンにとってはブラックボックスでしかなかった。それはテレビの複雑さよりもはるかに複雑なものであり、多くの生化学者の研究によって、ようやく視覚の生化学的な構造が明らかになりつつあるのが現状である(*5)。目は、自然界がどうなっているかということがよく分かっていて、周到につくられたものであること、したがって目を見れば神の存在を否定できないと、文鮮明(ムン・ソンミョン)師は次のように語っている。
動物世界では、生まれる時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったというのです。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたということになるのです。目自体は、空気があることも、埃(ほこり)が飛び散っていることも、蒸発する輻射(ふくしゃ)熱があることも知らなかったとしても、既にそれらを知っている存在があって、目を守るために、瞼が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです(*6)。
*2 金子隆一『もっとわかる進化論』日本実業出版社、1992年、200~203頁。
*3 チャールズ・ダーウィン、八杉竜一訳『種の起原』岩波書店、1968年、中巻、25頁。
*4 リチャード・ミルトン、竹生淑子訳『進化論に疑問あり』心交社、1995年、186頁。
*5 マイケル・ベーエ、長野敬・野村尚子訳『ダーウィンのブラックボックス』青土社、1998年、74頁。
*6 文鮮明「真の家庭と私」『ファミリー』光言社、1995年10月号、72~73頁。
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次回は、「生物はデザインされたものか~クジャクの美しい羽」をお届けします。