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信仰と「哲学」117
神と私(1
最近驚いたこと

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 私は、講演や講義、簡単なスピーチを人前でする機会が比較的多い方だと思います。
 ネットでの動画配信の影響もあり、昨年末にある場所で行った演説に対して多くの人たちから「良かった」との連絡を頂きました。
 それは自分にとって想定もしていなかった、「異常」と言ってもいい「反響」でした。

 あるメディア関係者からは、「私は多くの攻撃を受けることになるかもしれないテーマを公にしようとしていますが、なかなか決断できずにいました。あなたの演説を聞いて力が与えられ、決意できました」といった声も頂きました。
 共感、共有できる価値観の存在とその広がりの強さ大きさに非常に驚いています。

 実を言うと、私としてはその演説がそれほどいい出来栄えだったとは思っていなかったのです。
 準備していた内容で飛ばしたところもありましたし、演説全体の流れや抑揚も十分付けることができなかったという反省の思いもありました。滑舌ももう一つ、という印象でした。

 準備万端の上でなされた演説、スピーチであっても、さほど評価されないということも経験してきました。

 「このポイントは絶対理解してもらわなければならない」と力んで、何度も繰り返しても、その努力が報われないということもよくあることです。

 ところが、努力して強調した内容以外の、わずかな言葉が心に残ってその人の人生を変えるほどの影響を与えていた、ということもありました。

 実は、今回の演説がこれまでのいかなる演説とも違っていた点が一つありました。

 演説に臨む私の覚悟が違っていたのです。
 その覚悟とは「死を受け入れる覚悟」でした。
 演説の途中で、命を落とすことになるかもしれないという現実的な情勢に直面しており、それでも行うことを決めた以上、「死を受け入れる覚悟」をその前に固めておく必要があったのです。

 結果として、その覚悟が上述の「反響」の原因になったのだと見ることができます。
 人間が話す言葉の力は、論理的な整合性や一方的な情熱だけではなく、絶対者である神から流れ出てくるものでもあります。そのためには、自分が「無」であることが不可欠なのです。