信仰と「哲学」116
希望の哲学(30
人間の解放とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 これまで、死についてさまざまな観点から述べてきました。
 暗くなってしまうようなテーマですが、自由で平等な生き方、そしてそのような社会、国家、世界を実現するために避けて通れないものと考えたからです。

 死の恐怖にとらわれたら、正しい道さえ捨ててしまう可能性があります。
 死からの解放は、大げさに言えば「人間の解放」につながります。死を越えてこそ希望の道が開かれると言えるでしょう。

 人間の解放、すなわち人間が人間らしく生きるようになることは全ての人にとっての希望です。
 カール・マルクスにとっても同様でした。
 マルクスは、その方法を「人間疎外の克服」と捉えました。しかし、マルクスにとって「死」とはどのようなものであったのか、今の私には不勉強故に把握できていませんが、マルクスの思想展開を見れば、「一人の人間の死」について重要視していなかったのかもしれません。

 哲学において疎外とは、人間がつくったもの(機械・商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れることをいい、またそれによって、人間が在るべき自己の本質を失う状態を指して使う概念です。
 マルクスは、人間がつくったものとして、何よりも「神」を挙げていることは周知のとおりです。

 重要なことは、人間を支配するような疎遠な力として現れている構造=社会、国家を転覆することであるとしている点です。
 ここで言う転覆とは、これまで支配する立場にあった資本家階級を、支配されていた労働者階級が逆に支配するようになることをいいます。これが革命であり、人間解放の道だというのです。

 共産主義者はすでに、この夢を語ることができなくなっています。
 彼らが残した足跡は、血にまみれており、新たな、それも独裁による、より非人間的支配でしかなかったからです。マルクスは人間疎外の本質把握が間違っていたのです。

 もう一度人間が解放された状態を想起してみてください。
 身分、学歴、職業、国籍、人種などによる差別や排除による分断がない、まさに自由で平等な社会、国家、世界の姿です。

 疎外の根本的原因は、疎外の「構造」にあるのではなく、「心情」にあります。
 自己中心的な心情にこそあると言わなければならないのです。心情の中心が自己にある限り、疎外=よそよそしい状態が生まれるのです。

 疎外の克服は、心情の中心を自分に置くのではなく、「原因者」としての父母に、それも万民の父母である神に置くことができるようになった時に実現します。
 全ての人々が兄弟姉妹の心情で出会うのです。そこに愛の関係、心情の関係が生まれて、「一番うれしかったこと」が連続するのです。

 「一番うれしかったこと」「ありがたかったこと」「感謝すべきこと」は、人間が死を自覚した時、来し方を振り返っていい人生だったと反すうし、それが死を超える力となります。
 これこそが「人間の解放」と言えるでしょう。