2023.02.20 12:00
愛の勝利者ヤコブ 22
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
井戸の争い①
さて、イサクが神から与えられた祝福のおかげで、ゲラルの地でやることなすことがうまくいき数多くの家畜やしもべを持つようになると、初めから現地にいたペリシテ人たちはイサクに強いねたみを感じるようになった。そうして、彼の父アブラハムの時に掘った例の七つの「誓いの井戸(ベエルシバ)」(創世記21・31)を全部土で埋めてふさいでしまった。
また、アビメレク王も前とは打って変わった強硬な態度で、「あなたはもうわれわれよりもずっと強くなられたのだから」と、その領内からの立ち退きを求めてきた。
そこでイサクはそこを去り、アビメレク王の領分の外にあるゲラルの谷に降りて、天幕を張って住むことにし、前にアブラハムが掘らせた井戸を谷沿いに探り進ませた。そのようにアビメレク王の要求をどこまでも守った上で、砂漠での生活に欠かすことのできない井戸をもう一度掘り起こそうとした。それにもかかわらず、やがてその井戸の在りかがつきとめられ、そこから水が再びわき出てきたのをゲラルの原住民である羊飼たちが見つけだすと、彼らは「この水はわれわれのものだ」と主張してイサクの羊飼たちと争うようになった。
イサクは、一つの井戸をめぐってこのように争い合う人間の心の狭さを嘆き悲しんで、その井戸をエセク(争いの意、創世記26・20)と名づけた。さらにもう一つの井戸を掘ったが、これについても争いが生じたので同様の意味のシテナ(創世記26・21)と名づけた。シナテというヘブライ語は、サタン(敵対者)と語源を同じくする語だといわれる。
イサクは、さらに場所をかえて三度目の井戸を掘った。これについては争いが起こらず、イサク一族の住む場所を神が広げてくださったというので、その井戸をレホボテ(広い場所、街路の意、創世記26・22)と名づけたという。
水は砂漠の生活を送るにあたってなくてはならない必須のものである。したがって、その水を得るために井戸を掘るということは、人に霊的な救いを与えるために伝道し、尽きることのない神のみ言(ことば)、生命を取りつぐ(出エジプト記17・6、民数記20・10、コリントⅠ10・4など参照)ことを象徴するものと思われる。そのみわざは第二の無原罪の(堕落していない)アダム─キリストを通じてなされる。
その際、仮にキリストが初めて来臨された時に、人間たちの無知、無自覚、罪の根から生まれてくる反発心のために、神の救いのみわざのことごとくが成就されなかったとしても、キリストが再臨される時、すなわち、第三の無原罪のアダムが来られる時にはもはやそれに抗しうる何ものもなく、み旨がことごとく成就されることを象徴するものと思われる。
かつて、ノアの一族とひとつがいずつのすべての生物が箱舟に乗り込んだのち、40日に及ぶ暴雨によって地上のものがことごとく滅ぼされ尽くした。そののち雨がやんで水が退き始め、最初から数えて150日(5か月)後に(創世記8・3、7・11、8・4の日付参照)、箱舟がアララテの山頂に漂着した。
さらに40日ののち、ノアは水が干いたかどうかを確かめようとして、はとを放った。最初のはとは「足の裏をとどめる所」が見つからず、空しく帰ってくる。その7日後に放った第二のはとは、くちばしにオリブの若葉(*6/創世記8・11)をくわえて帰ってくる。さらに7日後に放った第三のはとは、「もはや彼のもとには帰ってこなかった」(創世記8・12)。
すなわち、イサクが3度目の井戸を掘りあて、これについては争いが起こらなかったというのは、はとがもともとおるべき所に行き着いたという象徴的行事の意味するところとよく似ている。『原理講論』によれば、それはキリストの再臨により、神の救いの摂理が完成されることの暗示といわれる。
さて、こののちイサクは、父アブラハムがアビメレク王との井戸をめぐる争いののち講和を結び、自分の領地として確認されたベエルシバ(誓いの井戸)に再び戻った。その夜、神は、イサクがその願いどおりのことを成し遂げたのを喜ばれ、改めてまた祝福の言葉を与えられた。
「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」(創世記26・24)。
この神の啓示からも、神は、イサクをアブラハムの役割を受け継ぐアブラハムの身代わり、もっと正確に言えば、アブラハムとイサクの親子二代をもって一人の人間のようにみなそうとしておられることがうかがわれる。これと同じパターンがアブラハムと同様に、摂理の遂行の過程において過誤を犯したモーセの場合にも、その使命がヨシュアによって受け継がれ、ヨシュアがモーセの身代わりとしてカナンの地に赴くという形で繰り返される(『原理講論』後編参照)。
メシヤ(キリスト)においてもその使命が未達成である時は、この場合と同じパターンが繰り返されたとしても不思議ではない。キリストご自身に過誤がなくても、選民として神から立てられたイスラエル民族が、キリストと一体化して無条件に服従してついていかなければ、そうならざるをえないわけだが……。
この神からの告知をうやうやしく受け給わったイサクは、その場所に祭壇を築いて、主(神)のみ名を呼び、そこに天幕を張った。その日、イサクのしもべたちはまた新しい、豊かに水のあふれる井戸を掘りあて、その歓声が天にこだました。イサクは、神がさっそく恵みを地上に現されたことに驚き、しもべともども、感謝の祈りを神にささげた。
*注:
(6)イスラエル民族においては、オリブはその実からしぼった油を注がれることによって聖別され王や祭司になるところから、しばしばメシヤ(油を注がれた者)の象徴として用いられる(ローマ11・17など)。「オリブの若葉をくわえて帰ってくる」のは、メシヤ(キリスト)が地上に遣わされるが、地上に完全に足をおろすまでに至らずに、天にまた舞い戻ってくることの象徴的預言(『原理講論』306〜308ページ)。
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次回は、「井戸の争い②」をお届けします。