2018.07.12 22:00
文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写 6
苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばしてさしあげなさい
アプリで読む光言社書籍シリーズ第3弾として、『文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写』を週刊連載(毎週木曜日配信予定)でお届けします。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。
浅川 勇男・著
【第二章】私を憎む者までも、ひたむきに愛そう
苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばしてさしあげなさい
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栄光の王冠
人を疑えば、苦しみを覚え
人を裁けば、耐えがたくなり
人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵(こよい)、手のひらに頭を埋(うず)めて、苦痛と悲しみに震える私
間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた
だまされても、信じなければ
裏切られても、赦(ゆる)さなければ
私を憎む者までも、ひたむきに愛そう
涙をふいて、微笑(ほほ)えんで迎えるのだ
だますことしか知らない者を
裏切っても、悔悟を知らない者を
おお主よ! 愛の痛みよ!
私のこの苦痛に目を留めてください
疼(うず)くこの胸に主のみ手を当ててください
底知れぬ苦悩に心臓が張り裂けそうだ
されど、
裏切った者らを愛したとき
私は勝利を勝ち取った
もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の王冠を授けよう
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人は誰でも幸福を求めています。人生の目的を単純明快に言えば、「幸福になること」と言えます。人は結婚して家庭を持ち、子供、孫を育てて、喜びを享受しながら一生を終えることを願います。誰しも、自分と家族が幸福になることを求めています。
しかし、文鮮明(ムンソンミョン)先生は、人々に幸福をもたらすことを人生の目的として定め、「人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人」(自叙伝、58ページ)になるために生涯を捧げておられるのです。
では、文鮮明先生は、いつ、どこで、決意されたのでしょうか。その時、どのような葛藤をし、そして克服されたのでしょうか。
人には人生の目的を決する場合、必ずと言っていいほど、人生の師との出会いがあります。その人との出会いが一生を決める時があるのです。文鮮明先生の場合、それがイエス・キリストだったのです。文鮮明先生は、現在は北朝鮮にある平安北道定州(チョンヂュ)にお生まれになりました。幼い頃から国を捨てて、遠く満州に逃れていく悲惨な人々の姿を見ながら育ちました。どうしたらこのかわいそうな人々を幸福にすることができるのか、と苦悩の日々を過ごしました。その解答を求めて、毎日、家の近くの猫頭(ミョドゥ)山という山に登って祈祷していたのです。そして生涯を決する衝撃的な体験をされたのです。
「十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。……
祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然(こつぜん)と現れたイエス様は、『苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨(みむね)に対する特別な使命を果たしなさい』と語られたのです。
その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました」(自叙伝、62ページ)
イエス・キリストは、今から2000年前、ローマ帝国支配下のユダヤにお生まれになり、生涯を人類の救いのために捧げ、 33歳で十字架にかけられて昇天した、人類の救世主といわれるお方です。そのイエス・キリストのあまりにも悲しそうな顔と言葉が、文鮮明先生に衝撃的な感動を与えたのです。
「イエス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。イエス様の悲しい顔が私の胸中に烙印(らくいん)のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした」(同、65ページ)
「苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばしてさしあげなさい」(同、63ページ)
イエス・キリストを通して天命が下ったのです。このとき、あまりにも重大で深刻な天命に、文少年は、たじろぎ、恐れ、そして泣きました。
「本当に恐ろしくてたまらず、何とかして辞退しようとして、私はイエス様の服の裾(すそ)をつかんで泣き続けました」(同、63ページ)
「人類を救いなさい」とは、何という大きな天命でしょうか。
私たちは、自分一人だけでも幸福になるには大変な努力が要ります。また、夫が妻一人を幸福にすることさえ難しいことです。父母が子女を幸福にすることも簡単なことではありません。自分のような不幸な人生を送らせたくないと子女に愛を注ぎながらも、親以上に悲惨な人生を歩ませてしまうこともあります。家族の苦しみを救うことでさえ大変なのに、人類を救うとは、なんと大きな使命でしょうか。
当時の韓半島の状況から見て、韓民族だけを解放するだけでも不可能に近い大業でした。当時の韓半島は日本に支配されていて、国そのものがありませんでした。
そのことを如実に示す事件が、文少年が天命を受けた翌年(1936年)に起こりました。
ドイツのベルリンでオリンピックが開かれ、マラソンで孫基禎(ソンギヂョン)選手が優勝したのですが、その胸に付けていたのは日章旗だったのです。この韓民族にとって誇り高い勝利は、対外的には日本の勝利とされたわけです。
この素晴らしいニュースを韓民族に知らせるために東亜日報は、孫基禎選手の写真から胸の日章旗を削除して掲載しました。そのため、東亜日報は日本総督府から弾圧を受け、関連者が逮捕されています。翌々年の1938年には、韓国の国語(文字)でもあるハングル教育が禁止されました。国を奪われて苦しむ韓民族を日本から解放するだけでも至難の業だったのです。
しかし、イエス・キリストが文少年に命じたのは、人類を救うことでした。人類には韓民族だけではなく、韓民族を支配していた日本民族も入ります。抑圧されている人々も、抑圧している人々も共に救えということなのです。なんと途方もない天命でしょうか。
そして、人類を救うことには、深刻で根本的な問題が横たわっています。
それが、人間の裏切りです。それも、愛する者への裏切りなのです。人間は、愛されても、その人に素直に従順に従うとは限りません。人間の心の底の底に潜む罪悪性は、自分のために命を捧げて愛した人をも、平気で裏切ってしまうのです。「恩を仇(あだ)で返す」のです。
愛したのに裏切られたとき、それでも愛し続けることができるのか? それでも、変わらずに、諦めず、愛し、信じ、許し、尽くし続けることができるか? その問いに、確信を持って「できる」と言えない限り、人を救うことはできません。裏切られても変わらない真(まこと)の愛で愛さなければならないのです。
その葛藤と身もだえする苦悩の叫びが、詩となって表現されたのが「栄光の王冠」なのです。
「いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました」(自叙伝、63~64ページ)
(続く)
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次回は、第二章の「詩『栄光の王冠』」をお届けします。