2018.07.05 22:00
文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写 5
与えたことを忘れる
アプリで読む光言社書籍シリーズ第3弾として、『文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写』を週刊連載(毎週木曜日配信予定)でお届けします。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。
浅川 勇男・著
【第一章】真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です
与えたことを忘れる
真の愛の第二の特色は、「与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与える」(自叙伝、220ページ)愛なのです。ここで重要なことは、与えたことを「忘れる」ということです。
愛とは、与えること、尽くすことなので、この点においては、真の愛も、そうでない愛も違いはありません。
ある人は、「真の愛と真でない愛は、尽くす愛の分量で決まる」と言いました。
確かに、中途半端に愛した愛と、全身全霊で愛した愛を比較すれば、真の愛は、全身全霊で愛した愛のようにも思えます。しかし、全身全霊で愛しただけで、本当の幸福になれると言い切れるでしょうか? 残念ながら、そうではありません。全身全霊で愛したほど、報われなければ、怨みに変わる可能性が高いからです。中途半端な尽くし方は、手を抜いた分だけ、怨みも半端です。しかし、大きな犠牲を払って尽くしたら、怨みも大きくなります。
愛に真が付くか、付かないかは、愛の分量だけでなく、尽くしたあとで決まるのです。
尽くしたことを記憶するか、忘れるかで、決まるのです。愛の違いは、与えたことを忘れるか、覚えておくか、で分かれるのです。与えたことを忘れたら、その愛に「真」がつくのです。
与えたことを忘れるからこそ、また与えて、なお与えることができるのです。
そのため、いつも愛の不足を感じて申し訳なく思う愛なのです。与えながらも、不足を恥ずかしく思う心なのです。
しかし、与えたことを忘れることはなかなかできないものです。特に、時間と労力とお金を掛けたことは、忘れようとしても忘れられないものです。
例えば、お歳暮やお中元の贈り物はどうでしょうか? 高価な贈呈品を送れば、金額や内容や相手先をしっかりと覚えてしまいます。心の底では、それ相応のお返しを期待してしまいます。ところが、送られてきた品物が粗品であれば腹が立ってきます。口上として、「お返しなんて、いいですよ」とは言いながらも、心の底では、お返しを期待しているものです。そのため相応のお返しがなかったり、せめて、お礼の一言でもないと、「なにさ、人の好意を無視して。もう二度とやるもんか」と怒ってしまうこともあります。与えたことを記憶した結果といえます。過去に尽くした記憶は怒りや怨みに変わる化学反応を起こす可能性があるのです。
人に与え尽くした記憶が、不幸の種となってしまうこともあるのです。
「真なる愛は、愛を与えたということさえ忘れ、さらにまた与える愛」(自叙伝、5ページ)なのです。
こう考えると、年を取って物忘れが多くなるのも、幸福なことかもしれません。自転車でスーパーに買い物に行って、元気に歩いて家に帰ってくる老婦人もいるそうですが、それも、幸福の第一歩と言えるかもしれません。
ところで、忘れることが幸福につながることを物語る「奇跡の老婦人」がいました。その老婦人は、それはそれはとてもいい笑顔をしていたのです。しかも、口から出る言葉は、「私は本当に幸せ者だ。会う人、会う人、みないい人ばかりで、ありがたい。神様、本当に感謝します」だけなのです。そして、誰に会っても「ありがとうございます。あなたに出会ったことで幸せを頂きました」と言うのです。
この老婦人は住んでいる地域で「奇跡の人」と言われていました。なぜ、そう言われるようになったのでしょうか。
この方はとても健康な人でしたが、突然、深刻な脳の病気で倒れてしまったのです。生死の境をさまよったのですが、手術によって奇跡的に回復したのです。しかし本当の奇跡は手術のあとに起こりました。なんと、この婦人の脳から、過去の人生のつらかったことだけが消えてしまったのです。そして、うれしかったことだけが記憶に残ったというのです。それゆえ、この老婦人が思い出すのは、良いこと、ありがたいことしかなくなったというのです。良いことしか思い出せない人になってしまったのです。過去の怨みを忘れることは良いことなのです。
与えたこと、尽くしたことを記憶していると、場合によっては、それが怨みとなり、人生に不幸をもたらすようです。
もし、私たちが、与えた割に不幸だと感じているなら、記憶力の良さのせいかもしれません。算数や英語は記録力が学業成績を向上させますが、尽くしたことの記憶は、幸福の成績を下げてしまうようです。
文鮮明先生の言われるとおり、真の愛とは、与えて忘れることなのです。
真の愛の二つの特色とは、第一に、まず与えること、第二に、与えたことを忘れることでした。まさに、神様は真の愛で人類を愛してこられたのです。だから疲れることなく、絶えず与え続けることができたに違いありません。
そして、文鮮明先生も真の愛で人類を愛しておられるのです。自叙伝の中で、こう言われています。
「今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています」(自叙伝、6ページ)(続く)
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次回は、第二章の「苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばしてさしあげなさい」をお届けします。