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シリーズ・「宗教」を読み解く 247
キリスト教と日本㉖
棄教し切支丹屋敷に幽閉された宣教師たち

ナビゲーター:石丸 志信

 都内を走る地下鉄丸ノ内線の茗荷谷(みょうがだに)駅を出て56分ほど歩きながら坂を上っていくと、小日向(こひなた)の閑静な住宅地の一画に切支丹(キリシタン)屋敷跡の碑が立っている。
 碑には「正保3年(1646)に宗門改(しゅうもんあらため)役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です」と説明が添えられていた。

▲切支丹坂(切支丹屋敷跡の横の道)

▲切支丹屋敷跡の碑(文京区小日向)

 井上政重は、江戸幕府の大目付で宗門改役として幕府のキリシタン禁教政策の中心的役割を担った人物。遠藤周作の小説『沈黙』にもその名で登場する。
 彼は、若い頃に洗礼を受けたが、1614年の禁教令が出た時に棄教したといわれている。

 三代将軍家光の下で出世し、外交政策にも手腕を振るい、これまでのキリシタン対策の転換を図った。
 捕らえたキリシタンを処刑するのではなく棄教させていくことにしたのだ。特に、影響力のある宣教師は信徒たちのいる牢から引き離し、この下屋敷内の牢に幽閉して、じっくり時間をかけて詮議・説得をしていった。

 1639年に殉教したペトロ岐部も最後はこの屋敷で執拗(しつよう)に棄教を迫られたようだ。
 それから数年かけて敷地内に獄舎、見張りの番所、取り調べのための吟味所などを建て、これを石塀で張り巡らせ「切支丹屋敷」が完成した。

 その頃、日本に潜入を試みた宣教師がいた。イエズス会士アントニオ・ルビノ神父が日本宣教の有志を募り、まず彼をリーダーとする先発隊の4人が鹿児島に上陸したが、すぐに捕らえられ長崎に送られた。拷問を受け棄教を迫られたが、全員そこで殉教した。
 これに続いてマルケス神父ら10人が翌年に上陸。彼らもまたすぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られた。

 3カ月間、拷問を加えられながら執拗な説得が続いたが、全員が棄教した。この説得には沢野忠庵こと背教者フェレイラが大いに貢献した。その後、全員が切支丹屋敷に移され終生そこで過ごすことになった。
 宣教師は生涯独身を誓ったカトリック司祭であったが、棄教の証しとして、結婚を強いられた。

 イタリア人のジョゼフ・キアラ神父は41歳であったが、死罪となった武士・岡本三右衛門の名を与えられ、その妻子をあてがわれた。
 他の仲間たちが順次亡くなっていく中、彼は宗門改方の職務を続け83歳でこの世を去った。その間、一度も切支丹屋敷から出ることを許されなかった。40年余りの幽閉生活だった。



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