2018.06.26 12:00
世界はどこに向かうのか
~情報分析者の視点~
第13回 日韓を結んだ金鍾泌元首相逝く
渡邊 芳雄(国際平和研究所所長)
6月18日から6月24日を振り返ります。
この間の主な出来事を挙げてみます。
大阪府北部を震源とする深度6弱の地震が発生し4人が死亡(6月18日)。トランプ大統領、中国から輸入する2000億ドル相当の製品に10%の関税を課すことを検討すると発表(18日)。ヘイリー米国連大使は国務省で国連人権理事会からの公式離脱を表明(19日)。中朝首脳会談(19、20日)。米韓両政府、定例の米韓合同指揮所演習「乙支フリーダムガーディアン」の中止を発表。金鍾泌(キム・ジョンピル)元韓国首相が死去(23日)、などです。
今回は、韓国の金鍾泌元首相の死去に関連する内容を取り上げます。韓国政界随一の知日派であり、何といっても日韓国交正常化交渉で中心的役割を果たした人物です。
親交の深かった中曽根康弘元首相も同日、「日韓友好と発展のために多大なる尽力をした。長年の友人を失うことは誠に寂しい限りだ」とのコメントを発表しました。
朝鮮動乱で荒廃した祖国を目の前にした金氏が目指したことは、経済の復興でした。輝かしい自由と民主主義の社会を実現するための最優先課題と考えたのです。
1961年、金鍾泌氏は朴正煕(パク・チョンヒ)氏と共に軍事クーデターを主導し、その後、「屈辱外交」との批判が吹き荒れる中、朴氏の片腕として日韓国交正常化に突き進んだのです。
最中の1962年10月、領有権対立の中で独島の爆破を提案し、さらに63年、戦前に日韓併合条約を結んで韓国の「売国奴」といわれた李完用首相の名前を出し、「第二の李完用になっても日韓国交を正常化させる」と述べたともいわれています(統一日報 2010年1月1日 尹徳敏・外交安保研究院安保統一研究部長と李度珩・『韓国論壇』発行人の対談)。
独島爆破提案については後に、「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と述べています(中央日報96年12月29日)。金氏を、親日や反日でくくることはできません。
正常化交渉の焦点は62年、当時の大平正芳外相との都内での2回の会談でした。対日請求権に代わる日本からの資金協力の額を巡って真っ向から対立していました。その時、金氏が「鳴かぬなら鳴かせてみせてほしい」と訴え、最後は大平氏が「貴国の未来に向かっての前進をお手伝いいたしましょう」と応じ、3億ドルの無償供与、2億ドルの有償供与を柱とする合意が成立したのです。14年間に及ぶ日韓交渉が決着した瞬間でした。
金氏は「希代の参謀」といわれました。しかし、幾度も不運に見舞われ、「三金(金泳三、金大中、金鍾泌)」の中で、ただ一人、大統領に届かなかったのです。
また、1990年代以降の金氏は、日韓関係の悪化で難しい立場に立たされてきました。しかし李洛淵(イ・ナクヨン)首相は、「その功績をたたえ政府としてしっかりと対応したい」と述べています。その墓地は国立墓地ではなく、忠清南道扶余郡となるとのことです。