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愛の勝利者ヤコブ 1

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

はじめに

 聖書の登場人物の中で、ヤコブほど人物評価が多彩で、謎に満ちた人物はいないだろう。兄の弱味につけ込んで家督権*(長子権)を買い取り、母と共謀して視力が衰えた父をだまして、正式に家督を譲り受ける祝福をも奪い取ってしまう。

 十戒には、「あなたの父と母を敬え、隣人について偽証してはならない、隣人の家をむさぼってはならない」とある。ヤコブは一見、これらの道徳律を破っているように見える。しかしそれでも、神はその罪を許して恵みを与え、苦労させて厳しく教育された。そのため、さすがの悪党ヤコブも悔い改めて善に立ち返ったのだと、神の底知れない愛と寛大さをたたえるのが通り相場であった。

 だが、ではなぜ神は、リベカの腹の中で争う双生児(ふたご)に対して、「二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」(創世記2523)と預言されたのであろう。また神は、天使と組み打ちして、「夜が明けても私を祝福しなければあなたを去らせない」と粘り抜くヤコブを見て、「あなたは神と人とに、力を争って勝った」(同3228)として、「イスラエル」(勝利者)という名を与え、イスラエル民族の祖と定められたのであろう。

 「統一原理」のヤコブ観は、従来の解釈とは全く違う。ヤコブこそは、家庭的次元のものとはいえ、神側に立ってサタン側を完全に自然屈伏させることに勝利した、聖書の中の唯一の人物である。イエスでさえ、イスラエル民族の信望を一身に集めた「きたるべきエリヤ」(マタイ1114)である洗礼ヨハネの離反が原因であったとはいえ、イスラエル民族を完全に心服させることができなかった。そして、十字架上でその肉身(肉体)は失われ、存命中に地上天国を築くことができなかったのである。

 神の救いの摂理は、サタン側が未練を持って占有しようとする兄カインを、神側に立てられた弟アベルが、愛と人格と知恵によって完全に心服させることによって達成される。この「統一原理」の摂理観に立って見れば、「アベルの中のアベル」として立たれたイエスは、結局カイン側のユダヤ教とイスラエル国家によって一命を奪われたのである。それにもかかわらず、イエスの十字架上での神への信仰と、敵をも愛する至上の愛とによって、サタンに肉は奪われても、霊への侵害は許さず、霊的救いを完成された。しかし、肉には原罪が残っているので、その子孫は再び罪の子として生まれてこなければならない。これは、大きく見れば、カインがアベルを打ち殺したのと同じパターンを取ったのである。

 モーセの使命をヨシュアが受け継いで果たしたように、イエスの使命を完遂するように召命された文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、全く孤立無援の中でただ一人完全勝利をしたヤコブのパターンを世界的に拡大し、祝福によって人類の原罪までも清算する権能を持たれた。そのうえで、カイン(無神論)の中のカインである国際共産主義のリーダーであったゴルバチョフ大統領と、最後に残る非原理型の「民族の父」金日成主席を、ヤコブがエサウと一体となったのと同様、愛することによって一体となることを通じて、「ヤコブの勝利」を世界的、天宙(霊界をも含む全宇宙)的にまで拡大された。

 このように、歴史的に最高の価値のある「愛の勝利」を実体で示したヤコブの路程を、力の及ぶ限り再現しようと努めたつもりである。この書が少しでもその目的に役立ち、神に用いられるものとなることを祈るものである。

199441
野村健二


*注解:「家督権」とは、後代の家族制社会の法制におけるような意味の家督ではなく、氏族社会の宗族継承権である(矢内原忠雄『聖書講義I』岩波書店)。

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 次回は、「イスラエル民族の起こり①」をお届けします。