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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(72)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
一、何よりも神のものを愛する

▲金元弼先生

愛はすべてに通じる

 「私の誓い」の第三番を見ると、子女と天宙をサタンに奪われたので、これを復帰するために、父が汗と涙と血を流すことによって、また僕として犠牲、奉仕することによって、サタンに勝利するという誓いがあります。これは、この世の中で敵を討つのと全然違うのです。

 理想、平和、幸福、すべての根本は、愛です。しかしサタンは、怨讐を愛することができません。絶対にできないのです。ですから、私たちが怨讐を愛するという高い理想を成せば、サタンは自分ができないので、自然屈伏する道が与えられるのです。一方、サタンも愛を願います。高い基準の愛を与えると、サタンの世界の人々も、すべてそこに集まってくるのです。そうすると、神が復帰摂理の中で、怨讐を愛するという最高の愛を打ち出した理由がお分かりですね。それが神とサタンの分岐点なのです。

 それで、これからは、こういったみ言を一日の生活、一週間の生活の中でいかに生かしていくのかが、私たちの課題になるのです。ただ、人がたくさんの言葉を全部守るのは、なかなか難しいのです。ですから、その中でも、一番たやすいみ言を身につけることから始めるならば、そんなに難しくないだろうと思います。

 み言の根本は愛ですから、み言の中に、愛がいろいろな形で表れているのです。そして結局は、全部つながっていますから、ずうっとたどっていくと、愛につながるようになります。一つの有機体です。

 植物を考えてください。葉から枝、幹を通じて、結局は根に達します。何事でも完全に身につけると、ほかのことにもそれが通じるのです。

 皆さんには、勇気と愛とは全然つながらないように見えるかもしれません。しかし、愛するがゆえに、勇気が出るのです。勇気あるがゆえに愛に通じます。愛のない人に、どうして勇気が出るでしょうか。

 勇気は、いろいろな形で表れてきます。強い人に対抗するのも一つの勇気ですし、川の中で溺れている人を飛び込んで救うのも勇気です。火の中で助けを求める子供を、その中に飛び込んで助ける行いもそうです。意見が合わないときに、全体のことを考えて相手の意見を立てるのも、一つの勇気と言えるでしょう。

 ところがそういう勇気も、愛なくしては出てきません。子供を救うにも、その生命を愛する心なくして、勇気は出てきません。人の意見を立てて、自分の意見を否定していくのも、もっと大きな目的を愛するという心があってこそ、自分の否定もあるのです。

 勇気と愛とは別々のものではなく、その源をたどっていくと、お互いに通じ合う世界があるのです。謙遜な心も、全部同じです。謙遜な心ゆえに勇気をもつことができるのです。その勇気をさらにたどっていくと、愛する心に通じます。このように、すべては通じていくのです。どのみ言でもいいですから、終わりまで身につけていくならば、すべてに通じるということです。

 科学と宗教は対極にあります。論理の展開も逆です。しかし、その極に至れば、宗教は科学に到達し、科学は宗教に到達するのです。ですから神に本当に通ずる人がいれば、その人は科学的であり、科学の道を究極まで行けば、必ず神に出会うでしょう。すべては神の愛から始まっているからです。

 自分の一番やりやすいものから始めて、ずーっと勝利していけば、強い個性の人でも、柔らかい個性を身につけることができると確信しています。

 おとなしい性格の人で、人にもよく話すことができないので、どうして人を治め、指導するリーダーになれるだろうかと考える人がいるかもしれません。

 夫婦のことを考えてみましょう。普通、男は強いもの、女はその反対だと考えています。しかし、いくら弱い女でも、自分の子供が火の中にいる時には、とんでもない力が出るのです。男よりも女のほうが、もっと早く助けに入っていくのです。それは愛によるものです。愛より強い力はありません。

 表現ができなくて、非常にソフトだから、リーダーシップをとれないということはあり得ません。愛あるがゆえに、義ならざるものを憎む心が強いのです。リーダーは人をリードするのですから、愛あればこそできるというのです。いくら強い個性をもち、非常にいい体格をしていても、愛がなければ立派なリーダーにはなれません。

 リーダーには、二つのタイプがあります。先生のようなリーダーと、韓鶴子夫人のようなリーダーです。例えば戦争のような非常時には、どういうリーダーが必要でしょうか。先生のようなリーダーです。私はソフトだからリーダーは難しい、というのは当てはまらないことです。しかし、私は愛の心がないからリーダーの適格者ではない、というのは当てはまります。ただ、人を愛し、神を愛し、み旨を愛する心は、誰もがもっているはずです。それは、リーダーをやれるということです。

 神は人間に、「万物を主管しなさい」というみ言を与えました。男にだけ約束したみ言でしょうか。個性の強い女にだけ話したみ言でしょうか。女のような男には当てはまらないことですか。それは、誰にでも当てはまるのです。自信がないという人は、これから自信をつけるようにしなければいけません。

 リーダーは、時には目を開けて、メンバーたちがお祈りするのを見てみるのです。そうすれば、立っているのがきつくて座る者もいるし、いろいろな人がいるのが分かります。一番おもしろかったのは、幼稚園での、日曜学校の礼拝の時でした。先生は「お祈りしましょう」と言って熱心にお祈りされるのですが、子供は長いお祈りには耐えられませんし、言葉も難しいと、なかなか理解できないのです。

 それで意地の悪い者でもまじめな者でも、それぞれ動いて、じっとしていません。ですから、目を開けて見ないと、子供たちがどうしているのか分からないのです。見れば、どのように生活指導していくかという方針が出てきます。パッと見て、その人は気持ちがいいのか悪いのか分かります。心からうれしくて笑うのかどうか、分かるのです。ですから、その人をよく導こうという目的観をはっきりもって見なければいけません。

 もしチーム・リーダーの立場に立って、その人に話をする時には、ほかの人に知られた場合に、プラスになるのかどうなのかとか、場所とか、いろいろ考える必要があると思ったので話しました。

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 次回は、「ルツとナオミの物語」をお届けします。


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