https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4099

信仰と「哲学」109
希望の哲学(23)
宗教的実存の体験

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「今ここに生きて共におられる」のが天の父母様(親なる神)です。子女のために全てを投入する天の父母様であり、願いは復帰、完成なのです。

 これまで記してきたように、人間は「絶望」を通じて天の父母様のもとに帰るのです。
 それは親子の心情関係に帰ること、天の父母様と喜怒哀楽を共にすることを意味するのであり、天の父母様の直接主管圏に生きることになります。
 本来人間の自由は、天の父母様の願いを外れないのです。

 重要なことは、天の父母様は「絶望」の機会、環境を人間に与えられるということです。
 絶望は人間自身が、とりわけ神と離れた人間が望むものではないからです。

 これまで述べてきたように、キルケゴールは人間が神に帰っていく過程、それは三段階(=美的実存、倫理的実存、宗教的実存)であると分析しました。

 この三段階において天の父母様と関わるのは第三段階、「宗教的実存」においてです。
 天の父母様と共にある宗教的実存として生きるために通過しなければならない「絶望」があります。

 キルケゴールは、その代表例として信仰の父・アブラハムのイサク献祭の命令、天の父母様から与えられた「機会、環境」を挙げたのです。

▲アブラハムの「イサク献祭」(Gordon JohnsonによるPixabayからの画像)

 アブラハムにとってイサクは、ただ一人の本妻の子、愛するひとり子だったのです。
 献祭とは、裂いて火で焼くことを意味していました。アブラハムにとっては、地位、名誉、財産を含む、あらゆる希望が途絶えることだったのです。

 まさに、絶望の頂点です。その場に臨む決断は、完全に自己を否定することでした。
 宗教的実存として生きることは、私にとっての「イサク献祭」の決断の場に自らを置くことです。それも常に。

 「イサク献祭」の内容は、一人一人異なり、他人と比較できないものです。
 それぞれが、自分にとって決して失いたくないものがある。他人の評価であったり経済的要件であったり。その全てを捨ててその環境に飛び込んでいく自らの選択が必要ですが、その環境は天の父母様が与えるのです。

 私にとって、3年前の清平40日間の体験は、「その意味」を持っていたと実感しています。
 この3年間、大げさではなく、その体験は変わらない「恩恵」として私の霊肉を支配しているのです。