信仰と「哲学」108
希望の哲学(22)
「死ぬこと」の意味について

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 死とは、「自分がなくなる」ということです。

 ところで、死には肉的(身体的)な死と精神的な死(あらゆる関係性を断つ)があると言えます。生きているということは関係性を維持、発展させているということですから。

 「死なん」とする決断の持っている意味を考えてみたいと思います。

 肉的な死についてではなく、対外的な関係性に関する内容となります。今の生活での関係性、そこに自分を中心とする価値が形成されており、立場・地位・名誉・誇り・財産などが、それです。

 しかしそれらは皆、自分中心の動機により結ばれた関係性(有機的関係性)です。常に他人、世間からの高い評価を望み、自分の立場や名誉が傷つけられることに耐えられないのです。

 こうした実存が、私たちが今生きているということの意味であり、自分中心の価値的な場をつくり上げているのです。
 中心にあるのは自分なのです。

 このような生き方、価値観を転換、放棄しなければ神に通ずることができないのです。そこから出発するのが「死生決断」なのです。

 神に通じること、すなわち本当の自分となることについて述べてみることにします。

 神の本質は心情です。心情は「愛を通じて喜びを得ようとする情的衝動」です。そうです、根本にあるのは衝動であり、理性・感情・意思を動かすのは心情という絶対利他の衝動なのです。

 よって、転換・放棄すべきものは、関係性により形成される自己中心的価値です。それが「死ぬということ」なのです。
 その道を歩まずして神と一つになることはできません。

 イエス・キリストの言葉です。
 「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書 第1037節)、そして「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(同39節)とあります。

 イエスは、まず自分中心の関係性を放棄し、神に帰ってから再び結び直しなさい(命を得る)と言っておられるのです。
 決して父母を捨て去る、子女を捨て去ることを語っておられるのではありません。再び結び直す、すなわち死して後、生きることを伝えておられるのです。