2022.08.21 05:00
至誠感天 家和万事成 186
自分を打って犠牲にする
今日も「一日の出発のみ言」をお届けします。
(光言社・刊『至誠感天 家和万事成』より)
第三章 信仰生活の四大指針
(四)献金の意義と捧げる姿勢③
私たち人間を中心として見てみるとき、体はサタンが主管していて、心は神様が主管しています。体は、いつも外的な土台としてサタンの足場になっていて、サタンの舞台になっています。ですから、祭物を捧げるということは、自分がこの外的な土台を犠牲にするのと同じです。希望をもって犠牲にし、神様を愛しながら犠牲にし、神様の生命を欽慕(きんぼ)しながら犠牲にしたので、その犠牲にした物は、祭物ですが祭物ではないというのです。自分の体の延長と見るのです。
なぜですか。私たちの体というものは、万物によって受け継がれたものだからです。ですから、万物を祭物として捧げるということは、体を打つことと同じことになるのです。誰が打つのでしょうか。自分が自分を打って犠牲にするのです。
このような観点から考えてみるとき、サタンの血とサタンの愛とサタンの生命を打つ人は誰でしょうか。それは「私」なのです。その「私」とは誰でしょうか。堕落したアダムの立場です。サタンの生命とサタンの愛を受け継いだ私の体が生じたので、自分自身を誰が打たなければならないのですか。アダムが打たなければならないのですが、アダムの立場を身代わりする私自身が打つ立場に立とうというのです。それが祭物を犠牲にすることだということを、私たちは知らなければなりません。(47-285、1971.8.30)
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明日は、「未練を持ってはいけない」をお届けします。