歴史と世界の中の日本人
第6回 八田與一
時を超えてつながる感謝の心

(YFWP『NEW YOUTH』158号[2013年8月号]より)

 歴史の中で世界を舞台に輝きを放って生きた日本人が数多くいます。知られざる彼らの足跡を学ぶと、日本人の底力が見えてくる!
 「歴史と世界の中の日本人」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

 東日本大震災で被災した日本に最も援助した国の一つが台湾である。
 台湾の人々は、総額で約200億円にもなる義援金を日本に送った。
 実は、台湾の厚意の背後には、台湾の人々の心に深く影響を与えた一人の日本人の存在がある。

 その日本人とは、八田與一(はった・よいち/18861942)である。
 與一は水利技術者であり、日本統治時代の台湾で農業水利事業に大きな貢献をした人物である。

▲八田與一(ウィキペディアより)

 台湾では中学校の歴史教科書にも掲載され、彼の命日である58日に行われる墓前祭には政府要人の多くが出席するなど、今なお、台湾の人々から深く敬愛されている日本人である。

 與一は金沢に生まれ、24歳で東京帝国大学(現東京大学)土木科を卒業後、台湾総督府土木部の技師として台湾に赴任するようになる。

 当時の台湾は極めて近代化の遅れた土地であった。台湾総督府は、まず学校をつくり、台湾の人々に教育を施した。

 教育と並行して台湾総督府が力を注いだのはインフラの整備であった。
 その象徴が「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」である。

 「嘉南大圳」とは、台湾南西部の水利施設で、川をせき止めて造った鳥山頭(うさんとう)ダムと嘉南平原一帯に網の目のように細かく広がる用水路などから成っている。

 その計画策定から設計、工事監督まで、全ての責任を担ったのが八田與一であった。
 台湾の耕地面積の約40%に当たる嘉南大圳の開発事業は、広大な不毛地帯を、ダムと用水路を建設して台湾一の穀倉地帯に生まれ変わらせるという前代未聞のプロジェクトであった。

 人情味に溢(あふ)れ、日本人に対しても台湾人に対しても平等に接する與一は、工事関係者や地元の農民に慕われた。しかし、工事は困難を極めた。ダムに水を引き込むために建設していたトンネル内でガス爆発事故が起こり、多くの犠牲者が出た。

 幾多の困難を乗り越え、先頭に立って誰よりも働いた與一の情熱は巨大プロジェクトを見事に成功へと導いた。

 台湾の日本に感謝する心は、與一を父のように慕い、共に歩んだ台湾の人々の思いとともに、時を超えて今につながっているのだ。

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 次回は、「韓国人の心の中に生きた日本人」をお届けします。