2022.07.24 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(63)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
四、興南解放と釜山伝道
心を変えない
先生が牢屋に入っている間、霊能者たちは教会からどんどん遠ざかっていきましたが、私の信仰には少しの変化もありませんでした。どうしてそうなったのだろうと考えたことがあります。私だって、天使のようだ、神のみ言を聞くようだと、尊敬していた霊能者たちや先輩たちが教会に来なくなるのを見て、心の動揺がないわけではなかったのです。
しかし、私が先生と一緒にいた時、先生から受けた平和感、そして真のみ言、そういったものが私の心から離れませんでした。私は「いつになったら先生に会えるのだろうか」という心が先立って、それ以外のことを考える余裕がありませんでした。そこで、自分のノートに、1、2、3、4……12、これが1948年、また一列に書いて49年と書きました。刑を受けたのが5年間ですから、5年分を書いたのです。すると、ここまで消した時に、先生に会えるということです。ですから、私が一番楽しい時は、一カ月が過ぎて、一つ消すことができる時でした。
先生がお話ししてくださったことが、いつも頭から離れなくて、何をする時も、一人で考えながら歩きました。そうしていたある日、私の心に強く教えられることがありました。
「お前は今、先生を信じて侍っているのではないか」と自分に言いました。「今、先生は牢屋に入っていらっしゃる。けれども先生は、今も心を変えずに信仰をもっていらっしゃる。それなのに、なぜ私が先に変われようか。私がもし、信仰を変えることがあるとすれば、先生が先に信仰を変えてからのことなのだ。それ以前にはできない」。
そういう心が強くわいてきました。それで私は心を変えることができなかったのです。
このことは、何をするにも同じです。メンバーと私が約束して、何かをやろうとする時には、ほかの人より先に心を変えてしまうことがあってはいけません。
先生と約束し、先生の前で誓った人たちが、食口の中にいました。その人たちが離れていったのが分かっても、先生はその人たち全員を訪ねて、それでも受け入れなかったという時になっても、その人たちに対する心を変えなかったのです。
ここに一本の線を引きます。これは先生にお会いする線です。そしてある人の先祖の実績、先祖の功績が、例えば10だとしましょう。この人が先生にお会いして、神のために善いことをして、善の実績を積んだとしましょう。ところが、この人が先生から離れて、つまりこの線からどんどん離れていきます。さらには、統一教会に対し、神に対し反対して、かえって反対の量が増えていきます。
善の先祖と自分の実績が、この人の善の実績になるのです。反対すると、反対の実績の量がどんどん増えていくのです。それで、ここまで来たとしましょう。そうしたら善の実績は、これくらい残るのです。まだ善の実績は残っています。そうである以上、この人を切るわけにはいかないのです。
ところが善の実績に対して、マイナスの実績が同量になれば、切ることができるのです。切っても讒訴(ざんそ)されません。そうでない限り、反対するからといって、切ったりはできないのです。今までよくやっていた人がいるとします。その人が駄目になったとしましょう。その人が善の実績を積み、忠義を尽くした部分が残っている以上は、切ることができません。
このように考えてください。ある会社に、一人の社員が入ってきました。彼のお父さんは、その会社で昔、非常に善いことをした人でした。その子供も会社に入って、とても善いことをしました。ところがそのうちに、この人が会社にどんどんマイナスをもたらしました。だからといって、すぐに切ってはいけないのです。この人が入社してから10万ポンドをプラスしたとしましょう。ところが社長の話を聞かないで、自分勝手にやって同じくらいのお金を損した時には、切っても何も問題になりません。
ところが1万ポンドの損害を出したとして切ってしまったら、その人は非常に恨みをもつでしょう。「私はたくさんお金をもうけてあげたのに、こんなことで切るとはけしからん」と考えるでしょう。会社の秘密を外に出てから訴えて、この会社をつぶそうとするでしょう。
こういう心情の世界を考えると、神のために今まで尽くした善の実績の量に匹敵する悪の、反対の量をもたらさない限り、その人を切ったりはできないということです。先生は、最初よく教会に来て熱心だった人が、たとえ反対するようになったとしても、すぐに心を変えるようなことはなさらないのです。今まで尽くした量より悪の量が増えた場合には、切っても讒訴されることはないということです。
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次回は、「先生を信じてついていきましょう」をお届けします。