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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(48)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道

▲金元弼先生

蕩減復帰のための苦労

 また冬でも、パンツ一枚で仕事をして、汗を滝のように流すという労働であったのです。そういう中で、先生も天然痘にかかり、夏にはマラリアにかかられました。マラリアというのは、マラリア蚊に刺されるとなるのですが、その病気は、一日熱が出たら、またすぐ悪寒がして、震えがきます。そしてまた、熱くなって震える、そういう現象を起こします。それが10日間余りも続いたのです。

 共産主義の方針は、「働かざる者は食うべからず」であり、それが標語、生活哲学のようになっていました。病気であっても働かなければ、平常と同じ分量はもらえません。食料を減らされるのがつらくて、いくら痛くても、痛みを感じながらも出ていって、働かなければなりませんでした。

 そういう人たちとは違って、先生は、どういう難しいことがあっても必ず出て責任を果たさなければならないという一念で、一日の欠勤もなく働かれました。先生は、これは人間始祖の堕落の報いから来るものであると思われ、それを感謝して受けて、過去の義人聖人たちがみ旨の道を歩みながら悲惨に死んでいったことを思い、彼らの恨みを晴らしてあげなければならないという一心で、その苦難を耐えていかれたのです。

 先生は、天宙の蕩減という問題を御自身で受け、これを成し遂げなければならない立場です。そのために、そういう苦労を一個人の苦労として受けたのではなく、天宙的な苦労として、これに対したのです。その場合、この労働は、天宙的労働として先生の身を悩ませたということを考えなければならないと思うのです。義人聖人たちが歩んだ十字架の路程を勝利でもって貫かなければ、そういう人々の恨みを解くことはできないと考えていらっしゃったのです。

 もし、先生がこれを勝利できないとするならば、歴史の中、摂理の中で死んでいった人を、誰が蕩減し、恨みを晴らしていくのだろうということを考えるときに、先生は、死に物狂いでそれを勝利しなければならなかったのでした。「これが勝利できなければ、神の復帰の摂理は成らない」という気持ちで、どんなことがあっても朝5時には起きて体を整え、その仕事を果たしていかれたのです。

 刑務所から労働する興南工場まで、34キロメートルの距離ですが、行列を作って行きます。先生を訪ねた時、私が見ていたら、56人が横に並び、そして縦隊になっていました。お互いに手を握らせ、顔は絶対に下向きにして行かなければなりません。両側には、武装した看守がつきます。

 なぜ手を握らせるかというと、脱走できないようにするためです。人の手で作られた柵みたいなものです。もし一人が逃げ出したら、その両側の人が罰を受けるようになります。そして顔をなぜ下向きにさせたのかというと、工場は社会の中にありますから、牢屋から工場へ行く間に、一般の人たちがいるのです。それで、そういう人たちと何か目で合図したり、連絡したりできないようにするためなのです。

 朝6時の起床時間に起きると、マラリアにかかったときは、歩いても足に力が入らないので、自分も知らずにガタンと踏み誤って倒れることが、何回もあったのでした。そして、本当にひもじい時には、非常に粘り気のあるつばが、よだれみたいに出てきました。そういう仕事の連続の中で、先生は歯を食いしばって責任を果たされたのです。先生は模範労働者として、模範賞を3回もお受けになったということを見ても、どれくらい熱心に仕事をなさったか、苦労されたかがお分かりになると思います。

 その当時、日曜日の仕事は、全部休みでした。一緒にいた金元徳(キㇺウォンドㇰ)さんが牢屋から出て、私と会った時に、彼は次のように話してくれました。
 「人々は日曜日には疲れに疲れて、みんな昼間も寝転んでいるけれども、自分は牢屋に一緒にいながら、めったに先生が寝るのを見ませんでした。いつも先生は、座って瞑想(めいそう)をしていらっしゃいました」と言うのです。

 先生は、「その刑務所の中で働いている数多くの人々の誰よりも、一番険しい苦難を勝利しなければならない」という心構えでいらっしゃったので、日曜日も休まずに、いつも瞑想していらっしゃいました。先生は、そういうふうに苦労しても、今まで苦労してきた人々の恨みを解放してあげなければならない、そのためには十字架の路程を勝利で貫かなければならない、そういう決心を一日も忘れたことはないというのです。

 そうした中で、先生の心を最も悩ませたのは、1カ月に1度、反省文を書くことでした。共産党の理念にかなった生活ができなかったことに対する反省文です。「私は共産党の理念のために忠節を尽くします」と書かせるのが、反省文の目的でした。先生は28カ月の間、自分の手でそういうことを書かないようにすることが、難しいことの中でも、最も難しいことでした。それは、心になくても、共産主義をたたえる文章を書かなくてはならないからです。

 その文章を書くことは、神を否定することに近いことなのですから、それはできないことです。それで先生は、出所されるまで、その反省文を書かれなかったのです。とても書けかったので、先生御自身は書かれずに、周りの人が代わって書いたのです。

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 次回は、「自分のものを与えられる」をお届けします。


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