2022.03.18 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(43)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年11月21日)
中間位置で分立条件を立てる(2)
堕落によって神の立場は目的をなせず、神の愛する息子がサタンに主管されたということによって、話すこともできない、あるいは恨み、爆発するほどの悲しみをもった立場ですから、そこを私たちは尋ねていかなければならないのです。
それゆえに、私はアダムの家庭を通して、何を知らなければならないかというと、創造主の心情を知らなければならないのです。堕落性を脱ぐ路程も、どういう立場でも、結局は自分の位置を離れて、当時の神様の恨みをほどかなければならない目的、責任で、神を尋ねていく路程であるのです。だから、アダムの家庭を知れというのは、アダムの家庭を中心として、神の心情はどうであったかという内容を体恤(たいじゅつ)していかなければならないということなのです。
まず、カインとアベルに分立しなければならないのですが、例えば人間を見る場合も、まずアベルを探さなければならないのです。このアベルは、信仰のある、そして公のために自分を生かそうとする、そういう心をもった人でなければならないのです。
どのようにその人を探すかというと、大先生が話されるには、伝道に行って家庭訪問をしながら食べさせてもらって、労働して、苦労するのを見て同情する人は、まずアベルだというのです。
私のやっていることを、何か偉い、何か公のためにやっている、普通の人間ではないと見て、尊敬というか、同情しながら、見上げる人もいるし、あるいは、あんなことをやる必要はないと思いながら、気分的には惨めな気持ちをもって、見下げる人もいるのです。
イエス様は、サマリヤの女に対して、この人がアベル的な素性(そせい)をもっているか、もっていないか試すために、「水を下さい」と言ったのです。この女にしてみれば、そう言った人がどうもユダヤ人の青年のようであるが、ユダヤ人はいくらのどがかわいても、異邦人にそんなことを言うはずはないし、また、たとえ死んだとしても異邦人に対して話もしないのに、この人は不思議な人だと思ったのです。しかし、イエス様はもう一度この女に言って、そして自分のやる水は、一遍飲んだら永遠にかれない水であると教えたのです。
このように私たちが人間を選ぶ時には、イエス様の伝道の仕方を見ると、本心を生かして説得しなければならないし、み言(ことば)を渡さなければならないことが分かるのです。
本当ならば、この話は話にならないような話です。水をくれというのに、何も持たずに井戸から水をくむこともできないし、この女にしてみれば、自分の仕事を終えればすぐに逃げてしまうかもしれない、そんな状況です。しかし、この女は二度目に言われた時、再び謙遜(けんそん)になって、今までの自分の歩んできた人生の秘密を明らかにして、そして罪の告白をしたのです。そしてそのあとに、イエス様はみ言を渡したのです。
このように霊的手術をしたあとにみ言を渡すのであって、そうしないでみ言を渡してはいけないのです。そうしないで渡しては、そのみ言は生命になることができないのです。
それで、アベルという人間をどういうふうに探すかというと、神様の片棒を担いで、そして侍る人間を探すのです。その侍る人間を血統的に探して、神に何を言われても従う、そんな人を探すのです。
神は信じられない者を信じているのです。そういう意味から考えると、供え物は人間によって作られたものであり、アベルの手で殺されたものなので、これに侍るのはなかなか難しいことなのです。だから、私たちも人と付き合う時に、信じられないようなことを信じようとする人がいますが、その人は相当優れた情をもっている人であり、信じられないものにも好奇心をもって付き合う人は、血統的に情の種類が違うのです。信じられるものを信じるのは、自分の立場で解釈した人であって、神の立場ではなく、信じられないものに対して何か本心的に、もっと分かりたいという疑問をもつ人は、情的に血統が違うのです。
だから、アベルとカインを分立するのに、血統的に見たというのは、情的に見たということなのです。だからアベルは血統的に、情的な面を条件として、信仰人物として定められたのです。
アベルの路程を見てみると、ヤコブの路程を深く知ってみると、心情がヤコブと同じなのです。ヤコブは相当内的な人間で、血統的に父母の立場で、家庭の全責任をもって生活していて、エサウは山にばかり出かけていたのです。そのようにアベルもまた、血統的に内的な心情をもった人だったので、供え物も、内的な物をもって供えたのです。だから、神がアベルを信仰人物として選んだということも、これを知らずにいれば、神の予定のように見えますが、情的に見れば、神がやったのではなく、アベルの責任によって定められたといえるのです。
なぜかというと、神は情をもって相手をするのであって、神がいくらなそうとしても、情的に相対基準がない場合は、絶対に摂理ができないのです。それは、神は霊を通じ、また情を通じて相対基準をもって摂理されるという原則から見れば、アベルにも神様の祝福が受けられる内的な心情の条件があるので、信仰人物として選ぶことができたといえるのです。
神が、その家庭の一番優れているアベルを祝福したというのは、いくらカインを祝福しようとしても、神には、カインとアベルを比べて、アベルとの相対基準がとられているので、祝福できなかったのです。
長男であるカインが祝福をまず受けたのなら、その家庭において問題はないのですが、弟のアベルが祝福を受けたことによって、カインとしてはどうしたらいいのか分からず、問題が起こったのです。
これは神として、歴史の責任をもった代表者しては、現世の指導者を中心にしては、摂理は絶対にできないのです。
悪主権下に捨てられたような者でなければならず、この世の中で一番愛されている者であっては、神は愛することができないのです。
しかしながら、アブラハムなどは、テラに相当愛されているのになぜ呼び出されたかというと、愛されていても、アブラハムは自分の父親のやっている商売に対して相当敵愾心(てきがいしん)をもっていたし、またお父さんに対しては相当な排斥心をもっていたのです。モーセもそうでした。モーセもパロ王の宮中で息子として相当栄光な立場にいたのですが、結局、内的には排斥心をもっていたし、イスラエル民族に対しては、愛をもっていたのです。
カインとアベルにおいて、同じ目的をもち、同じ念を入れた二人の供え物の結果が、一人はその結果を果たし、他の一人はその反対になったという場合、期待外れになった時の自分の気持ちは、取り扱いにくいのです。これはしばしば私たちにとっても、困難な問題ですが、ここにおいては、カインの使命を果たすのが私たちの責任なのです。
もちろん、アベルには何の誇るべき内容はなく、ただ血統的条件で仲保としての立場があるのみなので、カインの使命さえ果たされれば、アベルよりもカインのほうがその家庭では、父母の立場として、一番の功労者になるのです。だから、この情をどのように取り扱うかが問題です。
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次回は、「カイン・アベルの立場と動機」をお届けします。