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心情開拓
心霊を育てる生活原則(40)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

歴史に責任をもつ

 だから、私たちが歴史に責任をもつとするならば、自分は歴史の要求する自分であることをどれほど自覚し、また、人間として情的にどれほど責任をもてるかということが問題です。それが偽者と本当の者との違いです。

 しかし、偽者でありながら、自分はこの世のためにいるのだと思っている人があまりに多いのです。人間の真の姿が分からず、結局は大勢の中で、自分を偽って暮らしている人が多いのです。

 だから、私たちはこの歴史に対して自分がどれほど心配しているのか、また、こうなった現在に対して、どれほど自分のこと以上に愛着心をもっているのかと、自分にいつも問いかけなければならないのです。それによって僕(しもべ)であるのか、主人なのか分かれてくるのです。僕は給料をもらうだけであって、その仕事に対して責任をもてない立場であり、全体のことにも責任をもたないのです。

 現在の会社、あるいは国家、また家庭さえも、こういう偽者があまりにも多くいて、悩んでいる状態です。家庭ならば、この家庭に対して父母の事情をどれほど知った息子がいるかによって、その家庭の将来は有望かそうでないかが決まってくるのです。だから、もしその子供たちが親に依存して、その家庭的な全体事情を情的に知っていなければ、その家庭は問題になるのです。

 そういう偽者がいながら悲しまない人、そういう世界的混乱が起こっても自分のことと思わない人は、歴史の主人ではなく、見物人です。こうなると神様は、だれを相手にして摂理されるのでしょうか。

 だれを愛し、どういう人を探して、どういう方向へ、何をやりながら歩まれるかということは、復帰摂理を見ると分かるのです。

 信仰人物たちは、自分から神を探したのではないのです。自分から探した人たちはかえって神の怨讐(おんしゅう)になり、神を知らずに現在というものに責任をもった人が、神と共に仕事をやった人だといえるのです。

 イエス様の時のペテロは、信仰者ではなく、世間に捨てられた、ただの労働者として、宗教界の指導者に対して、「この世の主人ではない」と心配して、かえってイエス様を証(あかし)しました。またサマリヤの女も、率直にメシヤを証した異邦人です。それを見ると、この統一教会の中に、統一教会の信者がおらず、統一教会以外に神の息子がいるかもしれないし、「統一教会の理念をもった人が神の息子になれるのだ」とは言えません。

 自分の探した理念をもって喜ぶと、歴史に対して責任をもった立場でなく、信仰が事業的なものになったり、神の情から離れた立場に立ちやすいものです。だから、愛される者が愛する主人を忘れやすく、捨てられた者が主人の事情をよく知っていることがあるのです。

 私たちは、このような復帰歴史であると悟ったなら、自分がどれほど歴史を代表する者であるかを自覚し、歴史の要求する目的を自分の目的のごとく、歴史の方向を自分の事情のごとく歩むことです。それによって、その内容を備えることができ、「復帰摂理に参加している人物」ということができるのです。

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 次回は、「アダムの家庭の中のだれの立場か」をお届けします。


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