2022.02.06 17:00
日本人のこころ 59
『吾妻鏡』(中)
ジャーナリスト 高嶋 久
頼朝と義経の確執
源平合戦の勝敗を決めたのは、全国の武将たちがどちら側につくかでした。関東の武将たちから棟梁と認められるようになった源頼朝も、その支配は限定されていて、西日本はほぼ平家が支配し、東北には平泉の藤原秀衡(ひでひら)が独自の勢力を築いていたのです。
以仁王(もちひとおう)から平家打倒の令旨を受けたのは頼朝だけでなく、各地にいる源氏の武将たちです。最初に挙兵したのは伊豆にいた頼朝ですが、平氏を都から追い出し、京に一番乗りしたのは信濃の木曽義仲です。義仲は河内源氏の一族で源義賢の次男、頼朝・義経は従兄弟にあたり、頼朝にとっては源氏の棟梁を競うライバルでした。
一時、和睦を図った頼朝は、6歳の娘大姫を義仲の嫡男・義高と婚約させ、義高は鎌倉で暮らすようになります。実質的には義仲が鎌倉に人質を出したわけで、後に両者が対立し、義仲が敗れると、義高は処刑されてしまいます。大姫にとっては幼友達を失ったのと同じで、やがて心を病むようになります。その後の縁談も拒み続け、頼朝は後鳥羽天皇への入内を画策しますが、実現しないまま20歳の若さで亡くなり、頼朝の心に深い傷を残します。
頼朝にとって義仲以上の最大のライバルが弟の義経でした。小柄ですが戦に強く、戦場での活躍は目を見張るものがあったからです。それに比べて頼朝が前線に出ることは少なく、もっぱら鎌倉で政治を行っていました。
義経の弱点は、政治的なセンスに欠けていたことです。武士の政権を打ち立てようとする頼朝にとって、最大の問題は朝廷との関係で、全国の武将に対する影響力を朝廷から奪い、自身のものとするための戦いを続けていました。ところが、それを理解できない義経は、後白河法皇から京都を守る役職や官位を与えられると、喜んで受けてしまい、頼朝を立腹させたのです。
義経の直属の家来は弁慶などごくわずかで、平泉の藤原秀衡から与えられた兵士たちも少なく、配下の多くは頼朝から与えられた関東の武士たちです。それを監督する戦奉行を命じられたのが梶原景時で、常識外れの戦闘をする義経と確執を繰り返します。
そして、屋島合戦をはじめ平家追討に最大の功績を上げながら、頼朝から疎んじられるようになり、ついには平泉に逃れ、しばらくはかくまわれますが、藤原秀衡の死後、頼朝を恐れた藤原泰衡に討ち取られてしまいます。もっとも頼朝にとっては奥州制覇の一環で、義経はその口実に使われたと言えます。
義経死後の静御前
以下、『吾妻鏡』(あずまかがみ)には書かれていない話ですが、源義経の物語でとりわけ哀れを誘うのが側室の静御前(しずかごぜん)でしょう。吉野で義経の一行とはぐれ、捕らえられた静は1186年、母の磯野と鎌倉に送られます。その静に源頼朝は鶴岡八幡宮で白拍子の舞を舞うよう命じたのです。
母と同じ白拍子になった静は、後白河上皇が催す雨乞い神事に呼ばれ、最後の100人目で舞ったところ、にわかに空が曇って雨が降り始め、3日間降り続いたことから、上皇から「日本一」と称賛されました。その18歳の静を見初めたのが27歳の義経で、側室にしたのです。
静は病を理由に断りますが、頼朝の意向に沿おうとする母に懇願され、恥を忍んで舞台に立ちます。舞いながら歌ったのが、「しづやしづしづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」(しずの布を織るおだまきから糸が繰り出されるように、繰り返して昔を今にする方法があったなら)と「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」(吉野山の白雪を踏み分けて、姿を隠した義経の跡が恋しい)。
頼朝は激怒しますが、静の心意気に共感した妻・政子のとりなしで、命を助けられます。この時、静は義経の子を身籠っており、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺せ」と命じました。生まれたのは男子で、家来の手で由比ヶ浜に沈められてしまいます。
その後、政子のはからいで京に帰った静は、義経が奥州平泉にいるとの報せを聞き、1189年に平泉へと旅立ちます。しかし、下総国で、奥州からの旅人に義経の死を知らされ、伊坂の里(埼玉県栗橋町)まで引き返しますが、心身ともに弱り果て、短い生涯を終えたというのですが、これには異説があります。
香川県さぬき市長尾町にある四国霊場87番札所の長尾寺には、静と母が同寺で得度した話が伝わり、護摩堂前に剃髪塚があり、本堂に位牌が安置されています。
傷心の静は、京から母のふるさと東かがわ市小磯へ帰りました。そこから、義経が活躍した屋島の戦跡を訪ねる途中、長尾寺にお参りした折、同寺の和尚の教えに感じるところのあった静と母は剃髪し、近くの薬師庵に居を定めます。そこへ行く途中、静は吉野山で義経から形見にもらった「初音の鼓」を、未練を断ち切ろうと川に捨てたので、以後、川から夜ごと鼓の鳴る音が聞こえるようになったそうです。静と母は薬師庵で義経の菩提を弔う念仏三昧の日々を過ごし、母は69歳で亡くなり、静も1192年に24歳の短い生涯を閉じます。
摂津(大阪)から嵐の海に漕ぎ出し、阿波の勝浦に上陸した義経が、平家軍のいる屋島までひた走ったのが、さぬき路。しかも、静の母の生誕地なので、そんな話が生まれたのかもしれません。ちなみに、私の家は長尾寺の近くにあります。