2022.01.16 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(36)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道
神を慰め勇気づける
しかし、神は先生に一条の光を啓示されました。というのは、その刑務所には先生を待っている一人の青年がいるということを、牢屋に入られる前に教えてくださったのです。
もちろん先生は、「み旨の道を復帰していくためには、どのような死の道があろうとも行く」と覚悟していらっしゃいました。けれども、それが現実として現れたときには、どのようにしてこれを克服していったらいいのか、という問題にぶつからざるを得ませんでした。
皆さんは、どうですか。「私たちは、どんなことがあっても行きます」と言ったけれども、突然困難なことが自分の前に出現してくると、まず「どうしたらいいのか」というふうになるのと同じだと思います。そしてまた、こういう時には、お祈りすると、常に神が共にあるように感じられるのです。
反対に遭うと、神も何もかも、どこかに行ってしまいます。自分だけが残ってしまうのです。皆さんは、そういうことがありませんか。今は、何をしても神は聞いてくれるように感じられますが、いったんそういうことが起こると、もう誰もいない状態になり、自分だけが残るようになります。そのあとに、神がやって来るということを感じるのです。
不安な時、寂しい時、つらい時、怖い時は、神がいないのです。それが過ぎてから、神が現れるのです。ですから、こうした危機的な怖い時でも、平和な心で応じたときに、初めて神が現れるのです。お分かりですか。
私たちが神と授受作用できる自分となっていれば、神が入ります。しかし、神との授受作用がプツンと切れた時というのは、不安な時なのです。そういう時には、神を得ることができません。それは、授受作用の道がないからです。
不安というのは、既に神から離れている状態なのです。自分の心と体が授受作用するときに、神が運行するのです。神のみ意(こころ)を中心として、心と体が授受作用するはずなのに、サタンを中心として授受作用したら、サタンの主管を受けるようになります。ですから不安を感じるということは、「神の愛から離れるよ」という予告なのです。早く神に帰れということなのです。
そういう不安な中で、先生はかえって神を慰め、神を勇気づける心をもたれたので、先生は涙を見せられなかったのです。それゆえに神は、牢屋の中に先生を迎える準備を既にされていたのです。ですから先生は、牢屋の中に入っても、絶望よりは、かえって希望をもたれたのです。先生を迎える準備をしている青年が待っているから、希望に満ちた心情で訪ねていかれたのでした。神から愛される人は、死の境地を訪ねていっても、そこにはなお生きる道を準備している人たちが待っている、というところに神の愛があるのです。
先生は呼吸しても、初めの呼吸は神の呼吸であり、朝起きる第一声は、神から始められるのです。きょう、み旨のために出発するに当たって、この第一歩を誰のために歩むのですか。私たちにおいては、第一歩をお父様、第二歩をお母様のために歩むのです。先生は第一歩を神、全部を神というように、神を第一として出発されるというのです。
「お父様」、「お母様」と、私たちは口癖のように言っています。けれども、神が願ってきた心情で眺めた場合、私たちが唱える「お父様」と、神が願ってきた「お父様」には、相当の差があるのです。
牢屋においてさえも先生を待っている青年がいるように、先生が行かれる道は、神が摂理をされました。先生の行く道を神は、どうして準備しなければならないのでしょうか。その内容がどこにあるのだろうかということを考えながら、先生を研究してくださるようにお願いします。正しい心情でもって、先生を正しく見つめることができれば、10年間共についてきた人よりも、短期間のうちに先生を推し量ることができると思います。
普通の人たちは、何気なく歩いています。しかし、「誰も知らない神との時間をもつ」という心情で一歩を歩むのです。「こういう心情は、世界に誰ももっていないだろう」と。皆さんの歩き方一つさえも、意義深いものがあると思います。「天はお父様を象徴し、地はお母様を象徴する」といつも言われますが、それを実感できないことがあると思います。実感するためには、この地はお母様であるという心情でこれを踏んでいく場合、何の気もなくお母様を踏んだら、痛いでしょう。痛くないようにするためには、どうしたらいいのか。その心情で歩く場合に、皆さんに与えられる心情と、何の気もなく歩く心情とは、全然違うのです。
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次回は、「準備されていた死刑囚」をお届けします。