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霊界の実相と地上生活(16)
主体と対象と霊界の法➀

 36家庭の李相軒(イ・サンホン)先生(1914~1997)が霊界のさまざまな事実を証しされたメッセージ、「霊界の実相と地上生活【霊界の様相編】」を毎週土曜日配信(予定)でお届けします。

世界平和統一家庭連合

(光言社刊『霊界の実相と地上生活』より)

第一部 霊界の実相と地上生活
第三章 原理から見た霊界の暮らし
一 主体と対象と霊界の法

主体
 主体が対象に向かって何か与えようとする力の作用は、人間が肉身を持っているとき、現実に現れるようになりますが、これを「原理」では万有原力と表現したところがあります。

 ところで、主体と対象が、互いに授け受けする授受作用の力の根本は万有原力であり、その万有原力の根本となる力の主人公が、まさに神様です。神様から賦与されるその力は、主体が対象に与える力や、対象が主体に返す根源的な力として作用します。また、自ら発揮するのではなく、原因者である神様から賦与されたものとして、この力によって、私たちは存在しています。

 それゆえ、存在界のすべての根源的な力は、主体と対象が相対基準を成していくとき発揮する力の作用として現れます。いかなるものでも独自的に、自ら存在するものはありません。生存するということ自体が、主体と対象間に授け受けする力があってなされることなのです。それゆえ、天上においても地上においても、すべて存在するための存在の力は、主体と対象間に授け受けする過程の中において現れます。

 ここで霊界から見た主体と対象の力の作用を記録するなら、ここ霊界では、神様が主体になり、我々人間の霊人体は対象の立場に立つようになるとき、人間に命令されるその瞬間の神様の力が、すべての霊人たちに反映するのです。まるで、一つの影のように、一致するようになるのです。

 例えば、神様が、「李相軒!」と言いながら、何かを命令なされば、対象である私には、自ら命令に引かれていく本性が生じてきます。「神様、なぜそうなのですか、よく分かりません、理解ができません」などの疑問が全く生じず、ただそのまま自ら引かれていくようになります。これは、まるで磁石のN極とS極が引かれていく形態というべきでしょうか。

 霊人体の授受の回路がこのようになされていくのは、主体の力のゆえであり、対象も同じ姿で引かれていきます。これが本来の根本の授受の原理、すなわち根本の力です。

 主体が対象に与える力や、対象が主体に返す力の中で、どちらが強いか弱いかというのが問題ではないのです。互いに同一の力を与えて受けるかということが、より根本の問題です。ここで万有原力の力を、神様から賦与されているので、我々人間も神様から賦与された姿そのままで生きていくのが、本来のみ旨です。それゆえ、万有原力の根本となる力は、主体と対象が相対基準を成すとき、互いが同一の力によって作用してこそ、円満な授受作用になります。

 例えば、夫婦(主体と対象)、動物(雄と雌)、植物(雄しべと雌しべ)など、すべてが相対基準を成していくとき、繁殖の力が生じるのですが、ここで互いに相容(あいい)れなければ、力の作用は起きません。

 それゆえ、我々人間が存在するのに必要な力の根本となる力の主人公が、神様であられるので、神様を自分の心の中に迎えて生活しようという考えを持つようになれば、主体の力を正しく受けて、対象にも同じ力で反映するようになるのです。

対象
 対象において、主体から受けようとする根本となる力を受けると同時に、返そうとする力が、自ら発光体のように起きなければなりません。これは、主体が神様から受けた根本となる力の主人公として現れるとき、対象も同じ力を受けることができるということです。それゆえ、主体と対象は、独自的に自分が先にとか、相手が先にというのではなく、同一の位置で授け受けるべきです。相対基準の高低を問うことができないのです。

 例えば、夫婦間において。主体と対象が互いに一つになれないときに起きる相反作用は、神様から賦与された根源的な力ではありません。これは堕落性から受けたものなので、主体も対象もすべて神様から来る根源的な力を失い、レールから脱線したのと同じです。神様の主管圏内から脱するようになるのです。対象は、主体の根源的な力の作用によって反映するので、主体に向かって返そうとする本然の力から離れてはいけないのです。対象が主体に向かう力から離れようとするとき、対象は対象の力が授受の回路を成すように、努力しなければならないのです。

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 次回は、「主体と対象と霊界の法➁」をお届けします。


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