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霊界の実相と地上生活(14)
神様の愛の形態①

 36家庭の李相軒先生(1914~1997)が霊界のさまざまな事実を証しされたメッセージ、「霊界の実相と地上生活【霊界の様相編】」を毎週土曜日配信(予定)でお届けします。

世界平和統一家庭連合

(光言社刊『霊界の実相と地上生活』より)

第一部 霊界の実相と地上生活
第二章 霊界で見た暮らしと地上生活
九 神様の愛の形態

真の父母の思想
 私、李相軒(イ・サンホン)は、地上から霊界に来ましたが、真の父母様の思想を接ぎ木させること以外には関心がありません。なぜなら、真の父母様の思想以外には、もっと次元の高い思想がないということを悟ったからです。

愛がある人と愛がない人
 愛とは、人間が生まれる時、神様から受けた一つの貴い要素です。しかし、これが人間をして、世の中に生まれながらにして二人の主人に仕える要素として作用しているのは残念な事実です。これが、我々人間において、不幸の始まりです。

 愛とは、肉身を通じた夫婦の愛だけをもっていうのではありません。人間には、本来の性稟(せいひん)の中で、生まれる時から持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。それが愛です。

 ところで、人間は堕落によって、愛の本体を失ってしまいました。その結果、与えてくださった愛の上に、新しくペイントをしてつくった自己中心の偽りの愛に変わってしまいました。愛とは、神様の性稟の中で最も重要な部分に位置しています。このような神様の愛を、我々人間は、分析することもできず、掘り下げてみることもできません。今、そのような神様の根本的な愛を、この国、霊界に来て、見たとおりに記録しようと思います。

神様の愛
 神様の愛は、描くことも、触ることも、表現することもできません。そして神様の愛は、我々の目で確認することもできません。神様の愛は、我々人間としては、理解しにくいからです。また神様の愛は、我々人間の頭脳で分析できないのです。

 神様の愛は、我々に無限に与えても、減らず、依然として全く同じです。神様の愛は、まるで蛇口をひねっておけば、水があふれ出てくるように、休まずに与え続けてわき出しているのです。神様の愛は、我々人間が受けて、また受けても、嫌がる者はなく、受けて、また受けても腹いっぱいになった者はなく、もっと空腹な者のようになり、謙遜になります。神様の愛は、かさや重さで測定することができませんが、我々人間に対して無限の快適な姿で変化しています。

 神様の愛は、全世界(全人類)が受けて、そのすべてを神様にお返しするとしても、神様の愛のかさがもっと大きいのです。では、神様が人間を愛されるその愛の尺度が、どのように表現されるでしょうか。神様は、目に見えず、触れることすらできません。そして、限定的な物体でも、ある固体の塊でもありません。ところで、人間は、神様の愛をどのように表現し、何で悟るのでしょうか?「李相軒を愛される神様」を分析しようと思います。

 その時、「李相軒」と呼ばれました。明らかに、私の耳に声が聞こえました。まばゆく明るい光が、私の前後に、私の頭の上に放たれて照り返されます。その光の中で、不明の光の筋が私の心を捉えますが、それは表現することができません。私の能力では到底、表現しうるすべがありません。似たように表現するなら、まるで母の胸にうずくまった赤ん坊が、母の心臓の鼓動を聞きながら、母の目と視線が合うときに持つ平穏感とでもいったらよいでしょうか。これは、到底比喩にならないことですが、そのようにいうしかありません。

 また、呼ばれる音声の変化によって、その美しい光彩も変わりますが、ただ全身が溶け出すような恍惚感(こうこつかん)です。突然、瞬間的に、自分一人で立っています。明らかに神様が見えないからです。このように恍惚な光が、どのように瞬間、瞬間、人間に訪ねてこられるか不思議なばかりです。光として現れる神様の愛は、刻一刻異なっていました。大きな火、小さな火、丸々とした火、まるで地上で見た花火の光景のように輝く、燦爛(さんらん)とした光がいろいろな光彩になって、人間に愛の光として現れますが、その光を発する姿によって、感じられてくる感性も異なっていました。私が体験したこと以外に、他の者たちに現れる神様の姿を見ましたが、依然として神様は愛の本体であられました。

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 次回は、「神様の愛の形態②」をお届けします。


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