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心情開拓
心霊を育てる生活原則(25)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

2 個人と教会の発展のために
(1970年6月26日)

▲李耀翰先生

神の立場から誠意を尽くす

 蕩減(とうげん)復帰は、今は苦労しても、マイナスになっても、いつかは利益が戻ってくるんだという自信をもって、苦労するとか、迫害を受けるとか、損するとか、いじめられるとかするのです。何かもうけがあるという原則的な立場に立ってしなくては、結局、結果的には人に笑われたり、人に対して恥ずかしくなってしまうのです。そういう面を、信仰人物たちから学ばなくてはならないのです。

 洗礼ヨハネは、相当蕩減生活をして民族的な立場の人物になっていたのですが、イエス様と付き合った時には、人間的に付き合ったのです。どうして心情的に付き合わないで、人間的に比較したのでしょうか。イエス様の立場、イエス様の家庭、イエス様のものを、結果的に見て、付き合ったのです。歴史的なこの人間の過去を知らないのです。神から見た未来に、どういう使い道のある人か知らないのです。表れた瞬間の者を、結果的に見て、付き合ったものだから、洗礼ヨハネの立場からは、授受ができなかったのです。自分の考えで、イエス様を見たのです。イエス様を見た時の内的態度が間違っていたのです。人間的批判をしたのです。私たちも、そういう洗礼ヨハネの考え方、洗礼ヨハネの見方があって、それを行うと、結局霊的に乏しくなってしまうのです。

 大先生も、何をやっても、それをやるんだという、その結果を目標に誠意を尽くすのです。家を造る時も、私たちに相当説教されたのです。「家を建てるというので、私はただこの仕事をやるんだ」と、「28日間でやった」とこう思うけれど、大先生はこれをやるときには、歴史的に何か因縁があるし、この期間内に完成しなくてはならない歴史的な内容に、誠意を尽くされるのです。

 この建物はみすぼらしいけれども、先生が必要と思うこの期間に誠意を尽くすのですが、それは何のためにやるかというと、歴史的な因縁があって、そしてまた、これによる民族的な目的があって誠意を尽くすのです。これは一つの祭物です。それのために愛するのではなく、この物に対しての愛ではなく、この物を通じて、その先の目的のために誠意を尽くすのです。先生のやり方はいつもそうなのです。

 私たちは今、「こういうふうにしないで、ああしましょう、こうしましょう」と、いろいろな意見があって、先生と合わないのです。先生はそうする目的が今にあるのではなく、未来にあるのです。だから今は私たちに合わないけれど、誠意を尽くす内容が違うのだから、これはもう燃えてしまってもいいというのです。これに誠意を尽くすのではなく、これを祭物として、目的をまだ見ているのです。そういうやり方を、いつもやっているのです。

 人を愛する時も、この人間を愛するのではないのです。36家庭を見て、「君のために祝福したのではない」と言われるのです。「君たちが今やめても、離れても、どうでも、私は君たちに尽くす責任は済んだ」と言われるのです。「今君たちが離れても、神に対しての私のやる責任には誠意を尽くしたのだから、君たち以上の人を引っ張ってくるようになっている。君たちのために、祝福したのではない。祝福は、君たちの、その結果のものではない」と。血統的な背後もあるし、それから神は、こういう人間を神の前に祭物として使うのです。先生自身の情の内容が、永遠にどういうものであったかという、そこにあるのです。

 私たちはただ、「あの人間はああだ」と、現れたそのものだけを見て、それに比較して誠意を尽くそうとするのです。だから私たちは、その人によって打撃も受けるのです。

 環境によって打撃を受けるのは、その環境だけに自分が関心をもったからです。そういう見方は、復帰摂理から見て、蕩減精神が違うのです。それで私たちが、マイナスになるのは、ただそのもの、現在というそのものに、主管されやすい考え方でやっているからです。そこに相当な損があるのです。

 原理的に解釈すれば、ここにいる一人は、その一人だけではないのです。歴史的な内容を連続しているし、未来的な願いをもっている者だから、神から見た時のこの存在物は、私たちの見たものと全然違うのです。神の立場で私たちが、この「循環」というものを取り扱わないものだから、結局、霊的には乏しくなってしまうのです。それはピントが合わないからです。そういう面で、私たちは一生涯の生活を、過ぎ去ったのちには、悔い改めなくてはならないことが多くなってくるのです。

 だから、神の立場からの思いでいつも誠意を尽くせば、霊的に相当敏感になります。そのもの自体に主管されないで、現在というものに主管されないで、現在というものを歴史的に、あるいは永遠的に、観察の仕方をよく知ったなら、霊的に敏感になるのです。なぜかというと、霊的に実体的相対関係が結ばれるから、自分という立場が神の立場になってしまうので、自分も主管されるのです。考え方によって、そうなるのです。そういう面が信仰生活で、一番貴重なのです。それを連続していけば、とても成長します。

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 次回は、「死んでも神のもの」をお届けします。


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