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中和新聞セレクト Vol.2
真の父母様の平和思想~地球的危機克服の道

 統一運動の情報から国内外のニュース、各種講座に至るまで、さまざまなコンテンツを毎週2回(火、金)配信している『中和新聞』。Blessed Life編集部が同記事のアーカイブスからおすすめのコンテンツをセレクトして皆さまに紹介します!
 第2弾は「真の父母様の平和思想~地球的危機克服の道」(ナビゲーター:稲森一郎氏)のシリーズを毎週水曜日(予定)にお届けします。
 同コンテンツは『中和新聞』2015年10月~2017年5月に全14回で配信されたシリーズです。

第10回 南北統一はいかにして成されるべきか〈1〉

(中和新聞 2016年11月25日 通巻915号より)

 本シリーズでは、人類が直面している様々な地球的規模の問題にスポットを当てながら、その問題点の本質を解説するとともに、真の父母様(文鮮明先生・韓鶴子先生御夫妻)の平和思想に基づいて確かな方向性を提示します。今回、「南北統一はいかにして成されるべきか」と題して、3回にわたって韓半島(朝鮮半島)の南北統一問題についてスポットを当て、本質的解決の道について取り上げます。

東西ドイツ統一と
南北ベトナム統一の方式の違いは

■「平和統一」ドイツと「武力統一」ベトナム
 かつての「米ソ冷戦」を象徴する東西ドイツ分断の悲劇は、どのようにして「統一」へと向かったのでしょうか。

 1989年11月9日に起きた「ベルリンの壁崩壊」を機に、約1年後の1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに編入され、東西ドイツ統合が実現しました。

 この歴史的な東西ドイツ統合の約3年前、ベルリンで開催された「第4回ワールド・カープ大会」期間中の1987年8月8日、当時のワールド・カープ会長である文孝進様は、ベルリンの壁の前で涙を流しながら、熱烈に「壁の崩壊と東西ドイツ統一」を願うスピーチをされました。

 東西を分断する壁をなくし、「真の愛で東西ドイツは一つにならなければならない」との訴えは3年後に実現しましたが、それは正に奇跡的な出来事でした。

 武力は一切用いられることなく、東西ドイツは平和的統一を成し遂げたのです。

 東ドイツの共産主義政権が西ドイツの民主主義政権に編入される形を取ったので、これは民主平和統一です。

 もう一つ、戦後の冷戦構図のアジア版としてベトナム問題がありました。インドシナ半島では、「ジュネーブ協定(1954年7月21日)」によって「17度線」が暫定的な軍事境界線と定められ、共産主義陣営の北ベトナムと自由陣営の南ベトナムに分断されることになりました。そして、ベトナム戦争が泥沼化していきます。

 1975年4月30日、「サイゴン(南ベトナムの首都)陥落」という、北ベトナムに対する米国の屈辱的な敗北をもって終焉したベトナム戦争は、共産主義が武力で南北統一を果たすという結果になりました。統一国家の名称も「ベトナム社会主義共和国」であり、共産主義統一を明確に表現しています。

 ベトナムは現在、南シナ海の西沙諸島の領有権をめぐって中国と対立しているため、中国への牽制を目的に米国に接近し、米国と軍事協力を進めるなど親密な関係を築きつつあります。

 しかし、70年代半ばに軍事大国の米国がベトナムに敗北した屈辱感は、想像を絶するものと思われます。

■休戦した朝鮮戦争の延長戦がベトナム戦争
 ベトナム戦争を引き起こした根本原因は、フランスとベトナムとの戦争、ベトナムに対する戦争をフランスから引き継いだ米国、フランスや米国などの侵略戦争に対するベトナム人民の解放戦争など、いくつかの見方があります。

 戦後の東西冷戦構図(米ソ対立)の縮図が、1945年8月17日、韓半島の38度線を中心に、北は旧ソ連の管轄下に、南は米国の管轄下にと、米ソ間で定めた南北分断です。韓半島こそが東西冷戦の中心的な縮図であることは間違いありません。

 1950年6月25日に北の軍事挑発で始まった「朝鮮戦争(韓国動乱、1950-53)」は、38度線での分断問題を解消できず、米国と国連軍による民主主義による統一が果たせないまま北朝鮮が生き残り、「休戦協定(1953年7月27日)」に持ち込まれたことに、第2の朝鮮戦争と見るべき、ベトナム戦争勃発の誘因があると見られます。

 時系列で見ても、38度線の休戦協定(1953年)、南北ベトナムの分断を17度線で決めたジュネーブ協定(1954年)のように、休戦協定の翌年が17度線で分断を決めたジュネーブ協定となり、韓半島情勢とベトナム情勢が連動していることが分かります。

 韓半島の民主統一に失敗した米国の姿を見て、ソ連は北ベトナムへの軍事支援体制を盤石なものにしたのです。すなわち、米ソ冷戦の第2ラウンドをインドシナ半島で展開する結果となり、実質的に米ソの代理戦争であったベトナム戦争(1955-75)は、気が遠くなるような長い戦争になりました。

 1964年以降、韓国軍が米国の支援軍としてベトナム戦争に加わった背景には、決着が付かなかった朝鮮戦争のツケを支払わされているとも言えるような側面がありました。

■緊迫する38度線、南北統一への悲願達成へ
 北朝鮮は現在、核開発と度重なるミサイル発射実験などを行い、世界を騒がす問題児として孤立化の道を突き進んでいるように見えます。現時点で南北統一を語ることは、全く観念的なことのように聞こえても仕方がありません。

 しかし、「南北統一運動国民連合」創設(1987年5月15日)の際に語られた真の父母様のメッセージによると、最も困難とも思われる南北統一に対して、真の父母様は次のように語っておられます。

 「私たちに必要なことは、国内外で国民の皆様が互いに力を合わせて南北統一を信仰化する運動なのです。統一を熱望する心に火をつけなければなりません。……北朝鮮の天と地が感動するほどの私たちの熱い統一への意志と情熱なくして、どうして統一を願うことができるのでしょうか」(『平和経』1206頁)

 このようなメッセージを見ると、「統一を熱望する」という条件なくして、統一を実現することはできないのです。

 北朝鮮の政府高官などの亡命に関する報道を耳にする時、体制としての北朝鮮はそう長くないことが分かります。問題は、南北統一への備えが、私たち自身にどのくらいあるのかということなのです。

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 次回は、「南北統一はいかにして成されるべきか〈2〉」をお届けします。

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