2021.10.24 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(24)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
二、いつも弟子に関心をもたれる先生
自分で完成する
その次に、子供とたわむれ、泣いているのにもっと泣かせて、泣きやんだ時には、泣く前以上の喜びを与えて母親のところに返したということから、何を学ぶべきでしょうか。
先生は、子供が泣きやまないでいるので、泣きたいように泣かせてみるのです。子供が泣くのは、自分の考えであり、それは子供の道と言えます。ですから、自分の道を行きたいよう行かせることです。未練がなくなるまで、全部やらせるのです。最後には、先生の言われることに子供は従ってきたのでした。泣いていた時以上の良い状態のところまでにして、母親のところに返したのです。
先生と子供は、先生と私たちを象徴している、と考えてみたらよいと思います。教会に入る前、私たちには私たちの道がありました。そして先生に出会いました。しかしながら、先生のみ言とは異なって、自分の道を行こうとするときがあります。先生は、私たちの道を断って、先生の道と一体化するように導くのです。ところが、私たちは先生の言われることを受け入れたならば、死んでしまうような気がして、自分の道を行こうとするのです。しかし、世の中は既に、私たちを受け入れる所ではありません。そこで、「ああ、どっちへ行くべきか、こっちへ行くべきか」と考えます。
結局は、先生の道と一つになって行くようになるのです。そうしたときに、自分たちの道を行ったとき以上の恵みを受けるようになるのです。また、私たちはメンバーが受け持ったことを首尾よくできなかったとき、「ああしてはいけない、こうしてはいけない」と言って忠告したり、叱ったりすることがあります。叱って、「こうしてはいけない」と言って終わるのでは、いけないのです。叱っても愛を感じて、「本当に私が悪かったのだ。私を導いてくれて本当に有り難い」と思うようなところまで導いてあげなければいけないのです。私たちは、「あなた、それは間違っています。こういうふうにしてはいけません」という形で話を終わってしまうのです。
しかし、メンバーにとっては、自分が正しいと思った期間があったはずです。そこで、忠告されても、心の中では寂しい感情が残っているのです。ですから、時間を少しおいてからでもいいですから、「自分がこう言ったのは、こういう理由で言ったのだ」と言って、いたわってあげるのです。叱られても、気持ちが悪いのではなく、気持ちが良かったというところまで、心を高めてあげなければいけないのです。
分かりやすく言えば、たたいてばかりいるのではなく、もんであげることが必要なのです。「これをしてはいけない」と言うのは、たたくのと同じです。叱られたり、忠告されたりすると、「やあ、気持ちがいいなあ、私は感謝する」という心がすぐ起こるものではありません。皆さん、どうですか。言われたことが正しくても、最初は気持ちがいいものではありません。しかし、あとになって、感謝の心をもつようになるのです。感謝するまでの時間は、短い人もいれば、長くかかる人もいて、差はあるのです。
それは、なぜでしょうか。もちろん、自分で正しくないと思っているときに言われれば、反対して文句を言う理由はありません。気持ちが悪いと感じても仕方がないのです。しかし、自分が良いと思ってやっている時に指摘されて、「感謝である」というのは無理な話です。でも、結果的に良くできなかったことに対して言われたとするならば、「ああ、有り難いことだ」と受け入れるべきなのに、なぜ寂しい心が生ずるのですか。自分が悪くないときに言われれば、気持ちが悪いのは当然です。気持ちが良いと感じる人がいますか。
それは、人間は完成に向かって、誰の干渉も受けないで、直接自分の責任で完成するようになっていたからです。誰かを通じて神様のみもとに行くのではなく、自分で直接行くように造られていたのです。そうであるのに、これでは他の人に言われながら完成していくのと同じですから、それが寂しさとなって現れるのです。自分で試験を受けて、100点を取らなければいけないのに、人から教えてもらって100点を取ったことと同じです。これでは、100点を取っても気持ちが良くありません。
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次回は、「惜しみなく与えられる」をお届けします。