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預言 33
幼い天使との出会い

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著
(光言社・小説『預言』より)

33 幼い天使との出会い

 モスクワ訪問の最終日、韓(ハン)女史はモスクワ児童音楽劇場で開かれるリトル・エンジェルスの公演に智敏(ジミン)を招待した。

 「本当の復讐(ふくしゅう)とは心をからっぽにすること、という言葉、やっと分かりました」

 「オシポーヴィチを赦(ゆる)したのは立派でした」

 「ありがとうございます」

 韓女史は自分が着けていたネックレスを外して智敏に渡した。

 「ソフィアにあげてください」

 韓女史が取っておいてくれた席に座り、智敏は入場に備える子どもたちを見て、期待に胸を膨らませた。

 子どもたちは白い麻の服にとんがり帽子をかぶったり、鮮やかな五色の絹に刺繍(ししゅう)をした服をまとったりと、韓国の伝統衣装に身を包んでいた。

 「おお!」

 独特の装いが観客の関心をかき立てたのか、大きな拍手と歓声が沸き上がった。

 舞台にちょこちょこと駆け上がった子どもたちは、おへその辺りで両手を重ね合わせ、ぺこりとお辞儀をした。

 そんな中、ひときわ幼い子どもが一人、つまずいて転ぶと、観客席は大きな笑いの渦に包まれた。

 ところが意外なことに、それに続く舞台はレベルの高いものだった。

 民族衣装を身にまとった少女が、伽耶琴(カヤグム)の音色に合わせて歌う弾き語りをはじめとして、韓国伝来の人形の踊りや扇の舞、長鼓(チャンゴ)の踊りなどのプログラムが続いた。

 公演中も何がそんなにうれしいのか、笑顔を絶やさない子どもたちの姿に、観衆も心温まるほほ笑みを浮かべ、楽しそうに拍手を送った。

 期待した以上の華やかさと韓国伝統舞踊の美しさに感嘆する者もいたが、それよりも、子どもたちの天真爛漫(らんまん)な愛らしさに魅せられた観衆がほとんどだった。

 初めから終わりまで、一瞬たりとも退屈することなく、心の躍る舞台が続いた。公演が終了すると、観客は総立ちになって拍手喝采をした。

 見せ場はそれからも続いた。

 公演中、しょっちゅうリズムを外したり転んだりして、笑いの渦を巻き起こしていた小さな女の子が、ほかの子どもたちが舞台挨拶をしている間に観客席へ降りてきたのだ。

 その子は韓女史の席に行くと、この世で最も悲しげな表情を浮かべて尋ねた。

 「アイスクリーム、買ってくれないの?」

 「え? アイスクリーム?」

 「公演を頑張ったら、アイスクリーム買ってくれるって言ったのに……」

 韓女史がふき出すと、続いて観客席からも大爆笑が起こった。

 韓女史の答えも待たずして、観客からは拍手とともに、「アイスクリーム! アイスクリーム!」とシュプレヒコールが上がった。

 慈愛に満ちた笑顔で女の子を見つめた韓女史は、立ち上がって子どもの頭をなで、観客に向かって問いかけた。

 「この子たちの演技はいかがでしたか? アイスクリームを買ってあげてもいいと思いますか?」

 割れんばかりの拍手が起こった。

 韓女史があらかじめ準備したアイスクリームを子どもたちに配る光景を見て、拍手の波はますます大きくなった。

 続くソ連のプログラムに、雰囲気はさらに高潮した。

 初めは、暗い舞台下の片隅に座っているオーケストラに注意を払う者は誰もいなかった。

 しかし、チューニングをしている彼らの前に指揮者が現れた瞬間、その見慣れた顔を見て、観客の一部が驚きの声を上げた。

 「モスクワ・フィルハーモニー!」

 子どもたちのバレエのために、世界でも指折りのオーケストラが演奏してくれるのだ。

 降り注ぐ拍手の中、指揮者は一礼し、タクトが動き始めた。

 まるで魔法の笛を吹いているかのような独特のロシア風メロディーがフルートから流れ出した。

 「ペトルーシュカ!」

 ソ連が準備したのが、ストラヴィンスキーの屈指の難曲であることを理解した観客は、驚きのあまり言葉を失った。

 サーカスのように妙技をくり出す踊り。人間よりももっと人間らしい人形という、その乖離(かいり)を表現しなければならない演技。

 あの非常に難しい楽曲を、果たして子どもたちがこなせるのか。

 その問いに答えようとするかのように、舞台中央のドアが開いて数人の子どもが登場し、数々の離れ業を披露し始めた。

 信じがたい高さまでジャンプしたかと思えば、高速でくるくる回ったり、片手で逆立ちをしたりと、あらゆる妙技をこなす。舞台を所狭しと飛び回る子どもたちに、観客はただただ、心を奪われるばかりだった。

 ほどなくして、人形ペトルーシュカを演じる子どもが、ほかの人形役の子どもたちと共に箱の中から現れた。人形であることを強調するためのギクシャクした動作と、まるで宙づりにされた操り人形が踊っているかのように動く足先。

 しかし、その不自然さとは正反対の、にこやかで天真爛漫な、人間よりももっと人間らしい豊かな表情。わずか7、8歳の子どもたちが、人間のような人形を、鳥肌の立つほど巧みに演じている。

 完璧なドラマだった。

 非の打ちどころのない踊りと演技が一つとなって、言葉では言い表せないほど美しい芸術をつくり上げていた。

 途中で足首をひねったのか、多少もたつく子どもが一人いたが、その程度のミスを気にする者などいなかっただろう。

 潑剌(はつらつ)とした公演はよくまとまりながらも、躍動感にあふれていた。

 劇が絶頂を迎えるのは、ペトルーシュカが恋敵によって殺害される場面だった。

 どさっと倒れたペトルーシュカは、滑稽な動作で関節を何度か揺らし、笑顔で観客を見つめた。哀れで物悲しい笑顔だった。

 二つの相反する側面──人形の姿と、人形ではとても表現できない感情を織り交ぜたその奇怪な笑みは、まさに傑作だった。

 到底、子どもの演技とは思えない、美しい芸術がそこにあった。

 「ブラボー!」

 観客はこぞって立ち上がり、狂ったように拍手を送った。

 「これがソ連だ」

 まるでそう叫んでいるかのような公演だった。

 どこの国の国立バレエ団であっても、これより優れていると断言することはできないだろう。

 鳴りやまない拍手の中、倒れていた主演の子が起き上がった。

 拍手はさらに熱狂的に鳴り響く。起き上がった子が観衆に向けて、洗練された動作でお辞儀をした。拍手はますます大きくなる。

 ほかの子どもたちも一斉にお辞儀をし、指導を担当した教師も舞台裏から姿を現して、子どもたちと共にフィナーレのお辞儀をした。

 しかし次の瞬間、観客の拍手が小さくなった。

 挨拶をしていた子どもの一人が前に走り出て、教師の前で深く頭を下げたのだ。

 何が起こったのかと、目を丸くしてよくよく見てみると、先ほど足をひねってミスをした子どもだった。

 走り出てくる仕草は、少し前の韓国の子によく似ていたが、雰囲気はまるで逆だった。その子は消え入るような声で言った。

 「赦してください。大きなミスをしてしまいました」

 そうやって自分を責めたその子どもは、教師が止める間もなく舞台を降り、観客席の中を走った。

 そして中央にいた書記長夫人のライサに近づくと、膝をついて懇願した。

 「お願いです。どうかお父さんをシベリアに送らないでください」

 完全にはやんでいない拍手に紛れて聞こえなかった子どもの声が、今度ははっきりと聞こえた。

 拍手はいつの間にかやみ、ホールは凍りついたように静まり返っていた。感動の極みともいえる舞台は、それとは似ても似つかぬ予想外の出来事の影に隠れて、輝きを失った。

 観客は呆然(ぼうぜん)とその光景を見つめる。会場にいたソ連の名士たちも、当惑するばかりだった。すべての視線が注がれる中、子どもは涙を流してライサに哀願し続けた。

 ライサはしばし戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにほほ笑みを取り戻し、その子の頭をなでながらうなずいた。

 「そんなことにはならないわ。心配しなくていいのよ」

 「本当ですか?」

 「もちろんよ」

 まだ不安の色を残す子どもの顔からしばらく目を離せずにいたライサは、やがて静かに立ち上がると、大勢の観客に向かって話しかけた。

 「皆さん、かわいらしい心配だと思いませんか? 子どもが失敗したからって、その親をシベリアに送るだなんて」

 会場のざわつきが彼女の機転によってようやく収まり、あちこちで軽い笑いが起こった。

 ライサも笑顔を浮かべ、言葉をつないだ。

 「でも、ソビエト連邦の価値を貶(おとし)めたのですから、シベリア行きになるかもしれませんね」

 沈黙が観客席を覆った。

 ソ連の名士たちは呆然とライサを見つめる。一体この女は何を言っているのだ。

 彼らは大きく目を見開き、書記長夫人をにらみつけた。

 ライサはそんな彼らに視線を移した。

 「皆さんはどうお考えですか? 皆さんの子どもがこの子のように、父親のために絶叫することをお望みですか? それともあそこ……」

 彼女は頭をなでていた子どもと、向こうのほうにいるリトル・エンジェルスの子どもたちとを交互に見つめた。

 「あそこにいる子どもたちのように、甘えたりすることをお望みですか?」

 「……」

 「親がシベリアに連れて行かれるかもしれないといって、死に物狂いで練習する子どもになってほしいと思いますか? それとも、おやつが食べたいと言ったりして駄々をこねる、やんちゃな子になってほしいと思いますか?」

 「……」

 その場にいた誰もが微動だにせず、ライサの次の言葉を待った。

 彼女は会場を再び見回してから、口を開いた。

 「これが私たちソ連の姿です。決して負けない国。世界で1、2を争う強国。科学、文化、芸術、スポーツ、すべての分野で圧倒的な強さを誇るこの国の裏側には、こんな悲劇が隠れているのです。誇らしいですか? いかがですか? 皆さん、こんなソビエトが誇らしいですか?」

 ライサは韓女史の前に立った。

 立ち上がった韓女史に向かって、ライサはかつてないほど情熱的な声で言った。

 「文(ムン)総裁が主人に、共産主義の終焉(しゅうえん)を宣言するようにおっしゃったことを聞きました。必ずそうなるように、力を尽くします」

 驚くべきことだった。

 最高の共産主義理論家であり、大学で長い間マルクス・レーニン主義を講義してきたライサの口からこんな言葉が飛び出すなど、想像もできないことだった。

 しかし、彼女は今日初めて会った韓女史に、勇気ある告白、そして約束をしているのだ。

 「ありがとうございます」

 韓女史は力を込めてライサを抱きしめると、準備しておいたイコンのネックレスを取り出し、彼女の首に掛けた。


 モスクワ空港で文総裁一行を見送る智敏の表情は明るかった。

 彼は1983年9月1日以降、自分が経験してきた多くの出来事を振り返った。

 初めて、何のわだかまりもなく大きな声で笑い、顔を上げて青空を見ながら、鼻歌を歌った。

 我知らずこぼれるほほ笑みを隠す必要もなかった。

 しかし同時に、彼の心の片隅には、祖国に対する切ない思いも湧き上がっていた。

 分断されたままの祖国。

 文総裁なら、何かできるかもしれない。

 文総裁が飛行機に乗り込む直前、智敏がその耳元でささやいた言葉は、誰にも予想のできないものだった。

 「先生、どうか、平壌(ピョンヤン)に行ってくださいませんか」

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 次回は、「主体思想」をお届けします。


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