2021.07.07 17:00
中和新聞セレクト Vol.1
真の世界平和を求めて~人類的課題と根本的解決の道
統一運動の情報から国内外のニュース、各種講座に至るまで、さまざまなコンテンツを毎週2回(火、金)配信している『中和新聞』。Blessed Life編集部が同記事のアーカイブスからおすすめのコンテンツをセレクトして皆さまに紹介します!
第1弾は「真の世界平和を求めて~人類的課題と根本的解決の道」(ナビゲーター:魚谷俊輔氏)のシリーズを毎週水曜日(予定)にお届けします。
同コンテンツは『中和新聞』2017年5月~2019年11月に全24回で配信されたシリーズです。
第17回 韓半島の南北統一を推進する統一運動
韓半島は、冷戦構造がいまだに終焉していない、世界でも希有な地域であり、大国の利害が絡み合った〝世界の縮図〟とも言える地域です。今回は、韓半島の南北分断がどのように始まり、統一に向けてどのような試みがなされてきたのかを概観したうえで、文鮮明総裁が主導してきた「南北統一運動」を紹介します。
■南北分断の経緯と「統一論」の変遷
韓半島の南北分断の直接の原因は、第2次世界大戦が終了した1945年、米国とソ連(当時)が、それまで日本が統治していた韓半島を北緯38度線を境として分割占領したことにあります。
1946年、ソウルで「米ソ共同委員会」が開かれ、統一臨時政府の樹立を目指しましたが、意見が対立して決裂。分断が固定化されました。
1948年、南北それぞれに国家が樹立されましたが、その直後の「南北統一論」は、南北共に〝武力による統一〟を公言していました。
南(韓国)の李承晩・初代大統領は「失地回復論」を掲げ、共産主義者によって占領された北部を取り戻すことを宣言。北(北朝鮮)の金日成首相(のちに主席)は「革命基地論」を掲げ、南部で革命を起こすために北部をその基地にすると訴えました。
どちらも「統一のためなら、武力衝突も辞さない」とする強硬姿勢であり、この対立は1950年6月25日に「朝鮮戦争」が勃発(北が南に侵略)することで火を噴きました。
多大なる犠牲を払った朝鮮戦争が〝休戦状態〟となった1954年4月、南北が改めて統一について話し合う「ジュネーブ会議」(スイス)が開かれました。しかし、監査役として臨んだ国連の役割について両陣営の見解や評価が全く異なり、合意点を見いだせないまま決裂したのです。
その後、1972年に米国と中国が和解したことを背景に「南北共同声明」(同年7月4日)が出され、「武力によらず、平和的方法で統一すべきだ」との合意がなされます。
南側は「南北連合制」を、北側は「北南連邦制」を主張して意見は対立してきましたが、2000年に金大中大統領と金正日・国防委員長(総書記)による史上初の「南北首脳会談」(6月13-15日)が行われるなど、大きな流れとしては、南北が徐々に歩み寄ってきたと見ることができます。
■韓国の歴代政権の南北統一政策
韓国の歴代政権の南北統一政策を概観すると、①先建設・後統一政策、②北方政策、③太陽政策の3段階に大別できます。
朴正熙政権(1961-79)は、南主導で統一するには韓国の経済・技術の近代化が必要であると考えました。そのために「日韓国交正常化」を実現(1965年)。日本から経済協力金5億ドルを受け取り、それを用いて〝漢江の奇跡〟と呼ばれる経済発展を成し遂げました。
このように、まずは国家を再建して、あらゆる面で北朝鮮を凌駕してから統一を図るという考え方を「先建設・後統一政策」と言います。
全斗煥政権(1980-88)と盧泰愚政権(1988-93)は、韓半島の平和を定着させるために、ソ連や中国をはじめとした社会主義国との関係改善を模索。それとともに、北朝鮮が日本や米国など、韓国の友邦国との関係を改善できるように助けました。そのように展開されたのが「北方政策」です。
1987年から92年にかけて韓国は、東欧諸国、ソ連、中国と、次々に社会主義国との国交を樹立。北朝鮮は韓国の外交戦略によって包囲された形となり、国際的孤立を避けるために「米朝国交正常化」「日朝国交正常化」に向かわざるを得なくなりました。
こうした土台の上に、金大中政権(1998-2003)と盧武鉉政権(2003-08)による「太陽政策」が実施されるようになります。
太陽政策については韓国内でもさまざまな評価があり、「北朝鮮に対して一方的に経済援助をしても、結局、核実験をしたではないか」との批判も受けました。しかし、それまでの政権による「先建設・後統一政策」「北方政策」が積み重ねられた結果であると考えれば、南北統一に向けた〝最終段階〟の政策として位置づけることができるのではないでしょうか。
米朝交渉と日朝交渉、南北交流は、これまで中断と再開を繰り返してきましたが、2018年6月12日の「米朝首脳会談」を契機に、南北統一の機運が再び高まってきていると言えます。
■文鮮明総裁が推進された南北統一運動
文鮮明総裁は、「南北の分立は、私たちの民族が求めて起きたことではありません。強大国によって起きたことなので、これを解くことも、強大国の頂点を追い立てながらしなければならないのです」(『真の父母経』845頁)と語り、南北両国に米国、日本、中国、ロシア(旧ソ連)を加えた6か国協議による統一を願われました。
文総裁の南北統一論は、①防衛、②解放、③統一の3段階から成っています。
文総裁はまず、韓国と日本に「国際勝共連合」を創設(1968年)。共産主義の脅威からアジアを守るための運動を展開されました。
1982年、米国に「ワシントン・タイムズ」を創刊して、「戦略防衛構想(SDI)」を促進。そのうえで、1990年にソ連のゴルバチョフ大統領(当時)と会談し、冷戦を終結に導かれました。
さらに1991年に北朝鮮を訪問。金日成主席と会談することで、南北統一に向けた道筋をつけられたのです。
そのほか、韓国に「南北統一運動国民連合」を創設(1987年)。日本国内には2004年、在日同胞の和合によって南北統一を促進するために「平和統一聯合」を創設されました。
韓半島の南北統一は神様の悲願であり、世界の諸問題を解決する〝鍵〟です。そのような視点から、統一運動は今後も南北統一のために尽力し続けるでしょう。
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次回(7月14日)は、「青少年の道徳性を育てる人格教育運動」をお届けします。
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