信仰と「哲学」72
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(6)

共産主義者に流れる宗教批判

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 スピノザは、子供のころから学問の才能が認められ、ラビ(ユダヤ人が宗教的指導者に対して用いる敬称。ユダヤ教の聖職者)となる訓練を受けました。
 しかしスピノザは、ユダヤ教の信仰の在り方、換言すれば恣意的(主観的で自分勝手と思われる)としか捉えられない神と人間の在り方などを強く批判したのです。

 私が幼少時、祖母によって育てられた「おばあちゃん子」だったことは既に述べました(第6回参照)。
 両親は昼間、二人で田んぼに畑にと忙しく働いており、学校から帰ってくれば迎えてくれたのはおばあちゃんでした。そんなおばあちゃんが亡くなったのは大学1年生の時で、葬式の日、「もう二度と会えない」という思いが募り、裏庭のイチゴ畑で大泣きしたことも既に記しました。

 おばあちゃんを思うとすぐに浮かんでくるのは、毎日の朝、仏壇の前でお経をあげている姿です。49歳で病死した夫のことや結婚する前に結核で亡くなった長女のことなどを思いながら祈っていたのかもしれません。

 でもその姿を見ながら私は、年を重ねる中で自分が救われたいから一生懸命祈っているんだ、との批判的な目で見ていたのです。
 宗教、信仰といっても、皆「自分のため」なんだという思い、社会や世界のために自分を犠牲にしようとする人々とは質が違うと見ていたのです。統一原理に出合うことがなかったら宗教と向き合うことは絶対になかったでしょう。

 スピノザの宗教批判は後の共産主義者へと受け継がれていきました。絶対王政期のヨーロッパ社会についてスピノザは以下のように批判しています。

 「君主政体の大いなる秘訣は、民衆をうまく欺くこと、思い通りに動いてほしい民衆の不安や恐怖を、宗教の名において巧みにカムフラージュすることであり、それができるかどうかが最大の関心事である。人々はそれのおかげで救いが得られるかのように懸命に闘い続けているけれども、それはただ隷従するための闘いに過ぎない」(『神学・政治論』序文)

 後に共産主義者が宗教批判に用いる概念が多く出ています。
 スピノザの批判はユダヤ教を狙ってのものではありませんでした。彼が強く批判しているのは、何よりもまず、宗教が多くの人を隷従させるため個々の人々の悲しい情念、とりわけ不安や恐怖心をあおっているということなのです。

 その上で、宗教の唯一の使命である、信仰を通して公正・公平さと愛の普及・発展を促すことをなおざりにしていること。さらに人々の他宗教への憎しみと不寛容を植え付け、増幅させていることだったのです。

 しかしスピノザは無神論でも唯物論者でもありませんでした。それはイエス・キリストに対する姿勢にもっともよく表れているのです。