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統一原理127のポイント 103
岩を二打したことがなぜ罪となったのか

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第8弾、『統一原理127のポイント~百日修練会の試験問題と模範解答から』を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。

(光言社・刊『統一原理127のポイント~百日修練会の試験問題と模範解答から』より)

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理
102 岩を二打したことがなぜ罪となったのか説明してください。(『原理講論』、386~387ページ)

 岩(磐石)は完成したアダムを象徴していました。サタンはエデンの園で、将来、磐石となるはずであったアダムを打って堕落させました。それでアダムは、神から流れている命の水を永遠に飲ませ得る磐石(岩)となれなかったのです。

 それゆえ、モーセが杖をもって打つ以前の、水を出せなかった磐石は、堕落したアダムを象徴するものでした。神は、堕落した第一アダムを、完成した第二アダム、すなわちイエスに蕩減復帰することができる条件としてモーセが磐石を一度打つことを許されたのです。モーセが一度打って命の水を出すようになった磐石は、堕落した人間に命の水を下さるはずのイエスを象徴するので、モーセがもう一度磐石を打ったという行動は、将来復帰した石として来られ、万民に命の水を飲ませてくださるはずのイエスを打つことができるという表示的な行動となったのです。

 それは、もしイスラエル民族が不信に陥るならば、磐石(岩)の実体となられるイエスの前に、サタンが直接、出現し得るという条件を成立させたことになるので、それが罪となったのです。

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 次回(3月14日)は、「メシヤのための民族的基台はいかにして造成されたか、また、なぜそのときにメシヤが降臨されなかったかを説明してください」をお届けします。