夫婦愛を育む 151
○○で説得しない

ナビゲーター:橘 幸世

 以前、光の子園では園児の指導にみ言を使わないようにしている、という内容の記事を読んで、素晴らしいなと思いました。
 園児に限らず、平易な言葉での対話を通して、本人の心に寄り添って導いていくのが望ましい導き方と思います。それには意識と訓練が必要ですが。

 信徒にカウンセリングしたり、後輩にアドバイスしたり、子供を教育したりする上で、み言で「こうでしょ」「こうしなさい」と言ってしまえば、言われた側は何も反論できません。
 「正しい」と知っているからです。でも、心がついてくるかは別ですね。

 成長途上の私たちは、「正しい」姿に近づくべく、堕落によって埋もれた創造本性を呼び起こそうと努力しています。当然、「正しい」と分かっていてもできない、心がついていかない、力が出ないなどの葛藤を味わいます。

 その辺の気持ちが整理されてみ言の方向にスッキリ向かわなければ、体で行動していても苦しいものです(もちろん、やってみて気持ちが後からついてくる、という体験は、成長過程では必要かつ貴重なことです)。

 心がついていかないまま、み言で結論を出されれば、自分の思いにふたをすることになるでしょう。言われたとおりに思えない自分を駄目な人間だと捉えてしまうかもしれません。
 その負の思いが処理あるいは昇華されないまま蓄積されていくと、やがていろいろな支障をきたします。

 私がヨーロッパにいた時、体調に異変があって夜遅くに病院に連れて行ってもらったことがありました。

 余談ですが、高度福祉国家のそこでは、救急で運ばれた人からは医療費を取りません。
 「道に倒れている人がいれば助けなければならない」という考え方です。ぜんそく持ちの学生が一人いただけでキャンパス全体が禁煙になった、という話も聞きました。

 受付の人は私のパスポートだけ確認して、現住所すら聞くことなく対処してくれました。
 手当をきちんとしてもらったものの、自分の身に起こったことを受け止めるのは容易ではありませんでした。

 退院後、現地の姉妹(信徒仲間)のアパートでしばらく療養させてもらいましたが、内面的には苦しい日々が続きました。
 ナショナルリーダーに話しに来てもらった時、葛藤を吐露する私に彼は、「あなたは真のお母様につながるしかない」と言いました。

 お母様の歩みに自分を照らして苦しんできた(自分を責めてきた)私は、テーブルの上にあったティーパックの箱を彼に投げつけ、部屋から出て行きました(人に物を投げたのは生涯この時ただ一度だけです)。

 こんな形でも、気持ちを表せたのはよかったと、今振り返れば思いますし、そんな行為をも受け止めてくれたリーダーには慕わしさしか覚えません。
 皆に支えられて、やがて現場に戻りました。

 語る側は相手の気持ちを慮(おもんぱか)りながら、聞く側は自分の気持ちを恐れずに表しながら、共に乗り越えていく関係を多くの人と築けたらと願います。


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