耳で聞いた言葉は流れ、やがて忘れ去られます。しかし、実感して涙し、心を痛めた体験は、私たちの心に沁みて何年も残ります。「み言を頭だけで知らずに、心で知り、体で感じなさい」と、真の父母様に何度も指導を受けながら育てられた私たちです。「愚かな者とは、時を知りながらも実践しない者である」と、ひたすら歩んできました。
私たちは、「神様に似る」ために生きているのであり、「ために生きる」ことで愛が育まれ、自らの心の成長、良心が成長していくことを学びました。ところで、愛は本質的に「他者のため」に生きようとする時は大きくなりますが、「自分のため」に生きようとするときは、だんだん小さくなります。
「宇宙を造り、宇宙の法度を立てた神様は、どのようなお方ですか。全宇宙を通して、誰よりも『ために生きる』代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですから、その方に会おうとすれば、ために生きなければならないということです。
その方は知識の大王ですが、『知識をもって神様の前に来なさい』とは言いません。能力の大王ですが、『能力をもってきなさい』とは言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり大王ですが、『それをもってきなさい』とは言わないということです。ために生きて来れば、全員が来ることができるというのです」(八大教材教本『天聖経』「真の愛」より。372-373頁)
信仰は、私たちがみ言を学び、理解して信じるところからスタートします。繰り返し、み言を学びながら、心情的にその内容を受け止められるようになり、成長していきます。み言の背後にある神様の心情を心から知るとき、自然に何か実践したい気持ちに導かれるのです。そして、み言を中心として生活できるように転換されていきます。
私たちは、実践活動の意義や目的を知らされる前であっても、自ら率先して実践したくなるように導かれることがあります。そして、幾度となく、神様の心情の世界に触れ、実感的に神様を知ることができるようになります。
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