み言は全ての基本、基礎です。私たちは神様と共に生きる者として、神のみ言を学び、心情を転換しなければなりません。
日々使う言葉をはじめ、物事の考え方や生活習慣なども正していく必要があります。
み言を学んでも、その活用方法を研究しなければ、原理的生活をすることはできません。み言を実践し、み言によって自らの問題を解決していかなければなりません。生活化することで、み言の実体となることができるのです。
言行不一致な堕落人間である私たちにとって、み言どおりに生きることはなかなか難しいのです。だからこそ重大な問題に直面したとき、真剣にみ言を祈り求めることが大切です。その問題を解決した時の感動と喜び、天に対する心からの感謝を幾度も体験していくうちに、み言が実感できるようになり、成長していくのです。
聖書の中に「種まきの話」があります。
「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」(ルカ8/5-8)
「種」というのはもちろん、「神のみ言」のことです。このみ言を聞いたあとの状態を4つに分けて説明しています。
第1の「道ばたに落ちた」とは、み言を聞いたのち、すぐにその心からみ言が奪い取られて、救われることはもちろん、信じることさえできない状態です。
第2の「岩の上に落ちた」とは、み言を聞いた時には、それを喜んで受け入れても、根を張ることができないので、しばらくは信じていても、試練に遭うと簡単に信仰を捨ててしまう状態です。
第3の「いばらの間に落ちた」とは、み言を聞いて実践していこうとしても、日々過ごしているうちに、生活に対する心配が多く、また富に惑わされ、快楽に心を奪われたりして、とうとう信仰の実が熟すことなく終わってしまう状態です。
最後の「良い地に落ちた」とは、み言を正しい心をもって受け止め、しっかりとその種を育て上げ、いかなる風雪にも耐え忍んで実を結ぶに至る状態を例えています。
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