だから先生は思うよ。先生は初めから春を迎えたくない。普通の人は、初めから春を迎えることを誰でも好む。皆さんもそうでしょう。春は皆が楽しむ。しかし、冬はそうじゃないんだね。本当の春の味が分かる者は、冬を乗り越えた者である。冬を体験しないで春を迎えた者は、その春が本当には自分の春にならないというんだね。春から数えて春夏秋冬、四季を通過してこそ、自分が一つのことに決着をつけられるのに、春から出発して秋まででは、そうはいかない。
だから冬は悪いんじゃない。冬はどういう機会かというと、生命の実体が完全に聖別される機会である。冬に、冬より強い生命力を持っていないと死んでしまうよ。いかなる実でもね、寒い所で寒いといって、その生命が寒さに負けてしまったら、次の春には芽が生えない。いかに寒くても、その寒さ以上の生命力を持っていてこそ、冬を乗り越える生命力を持っていてこそ、冬に勝利した生命力を持っていてこそ、春に芽が生える。春の喜びを迎えることができるというんだね。
……だから我々はまず第一に、冬を迎えよう。それが統一教会の主張する指導方針だ。また、「原理」が我々に蕩減条件を通して教える内容である。先に神が祝福して、蕩減条件を立てさせるんじゃないよ。蕩減条件を立てさせて、祝福する。それは何かというと、冬を先に迎えさせて、それから春を迎えさせる。そういうふうになってるんだ。
……だから困難、患難にぶつかっても我々は感謝する。希望を持つ。そういう者でなければ、生命力を持った者にはならない。そういう者はどこにいても、真心を込めて種を蒔く。するとそこから、必ず芽が生えてくる。
そういうふうにして、ある過程を通過するんだね。夏の期間を通過しなきゃならない。それから秋になるんだね。冬を越えて春を迎えた人は、そう難しくない。日本も今まで伝道してきて、いろいろな方面で問題があったりする。そういう段階だね。しかし、そういう段階を越えた場合には、必ず春が来る。春が来て、夏が来るだろう。だからいずれ夏の期間において、統一教会は繁栄する。そうして秋になる。そこにおいて、日本に必要な人材が統一教会の人であることが認められる。しかし、それでもって事が済むんじゃないよ。そこから第二の冬がやって来るよ。第二の春を迎える準備をしなければならない。(『文鮮明先生の日本語による御言集6』178~180ページから抜粋)