愛の知恵袋 6
「受ける愛」と「与える愛」

(APTF『真の家庭』より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

 山本美千恵さん(仮名)は30代の主婦。結婚して10年、二人のお子さんがおられます。

 「がっかりです。結婚する前はすごく親切だったのに、今では何にもしてくれません。『私も仕事をしているんだから、あなたも早く帰って子供の世話をしたり、洗濯物を干したり、お茶碗を洗ってくれてもいいんじゃないの』と言っても、『はいはい。わかりました』と言うものの、続かないので『ちゃんと言ったことをやってよ』というと、『俺は仕事で疲れてるんだ。家に帰ってまでこき使われたくないよ』と口もきかなくなる始末。全てがいい加減に見えて、許せないって気持ちになって大げんか。離婚の話まで出ました。子供の事を考えると離婚はしたくないのですが、もう自信がありません」ということでした。

 一方、夫の敏雄さんは「私のほうがもう疲れました」と言います。「彼女は結婚前は優しくて、細やかに尽くしてくれる人だと思っていましたが、結婚後は私に対する要求ばかりで、いつも喧嘩です。特に、子供が生まれてからは、私のことなど眼中にないようで、自分の仕事と子供の事ばかりです。それだけならまだ忍耐できますが、私のすることなす事に皮肉を言ったり非難するので、もう家に帰るのが嫌で、途中で道草をして遅く帰るようにしたんです。そうするともっとヒステリックになって怒るので、正直、もう顔も見たくないという心境です」。

「愛」の需要と供給
 私達人間の持つ精神的欲求の中で、最も強い欲求は「愛されたい」という欲求でしょう。誰でも「周りの人達から愛されている」と感じれば、「自分は幸せだ」と思えます。反対に「自分は誰からも愛されていない」と感じたときは、「不幸だ」と思うのではないでしょうか。

 この世界は愛に飢え渇いている人で満ちあふれています。そして、子供から老人まで、「寂しさ」をかみしめながら暮らしている人達が無数にいます。

 愛情を求めている人達は山のようにいるのに、愛情を与える人はほんの僅かしかいない。つまり、「愛の需要は多いが、供給が少ない」という極端な需給のアンバランス、これが社会の現実です。

 家庭の中でもこれと全く同じ事が起きています。妻も夫も子供達も、優しい言葉や愛情に飢えているのですが、それを満たすだけの「与える愛」がないので、家族同士が互いに不満を抱いています。「これくらいのことはしてくれたっていいじゃないか」という気持ちが沸いてきます。

 相手に対して「あなたには愛がない!」「私の気持ちをどうしてわかってくれないの」とどんなに糾弾しても、事態はもっと深刻になるだけです。家庭に「愛の絶対量」が不足しているのですから、誰かが愛を供給しない限り事態は好転しません。

 結局、問題の解決は、私が「愛されることよりも愛することを生き甲斐とする人」になる以外にはありません。

恋の愛は「求める愛」、真の愛は「与える愛」
 不思議なことに、見合い結婚よりも恋愛結婚のほうが離婚率が高いのです。なぜかというと、恋愛結婚のほうが、相手に対する期待が大きいからです。その期待が予想どおり満たされれば何の問題もありませんが、そうでないことが多いのです。

 結婚して寝食を共にするようになったとき、初めて相手の欠点や嫌な癖が見えてきます。お互いに「こんな人とは思わなかった」という失望感と不満が渦巻いて、つい相手の欠点を指摘し、変わることを要求するようになります。その瞬間から衝突が始まり、非難し合うようになれば、夫婦の愛は急速に冷え込んで、結婚生活は破綻の危機に瀕します。

 その時、相手に求める愛の限界を悟って、相手に与えることを喜びとする愛に転換することができれば、二人の愛は新しい高いレベルの愛へと飛躍し、幸せの青い鳥がやって来ます。

 恋の愛は相手に求め期待する愛。真の愛は相手に尽くし与える愛なのです。

「受くるより、与うるが幸いなり」
 もちろん、最初から「あなたを幸せにしてあげたい」という動機で結婚し、そのごとくに奉仕することを喜びとする夫婦であれば、当然うまくいきます。

 新約聖書に「受けるよりは与えるほうが、幸いである」という言葉がありますが、結婚生活が成功するか破綻するかは、この黄金律をいつ悟ることが出来るかにかかっていると言えるでしょう。

 二人の出会いが、見合いであろうと、恋愛であろうと、それが問題なのではなく、結婚後、夫婦間に不満が起こってきた時にどう克服するのか…ということこそが、最も肝心な事ではないかと思います。

 愛されるのを期待することから、愛する事に喜びを見いだす生き方へ…この転換さえできれば、いかなる困難も越えてゆくことができるのではないでしょうか。