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日本統一運動史 10
日本留学時代⑨

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立61周年記念として『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』を再配信します。
 創立40周年の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

二、 日本留学時代(1941.4.1〜1943.10)

(14)日本人への愛

①「日本に行けば私が戦うのは日帝であって、日本の民ではありません。神様が戦うのはサタンであって、サタンの指揮下にいる人ではありません。それは確かだというのです。日本に行っても、日本人を誰よりも愛しました。日本は神を知らない国でした。本然の主人、父の愛を教えてあげなければならないと考えました。

 先生は、お金があれば全部友達に与えました。『誰よりも日本を愛する条件を立てよう』と考えました。いろいろな所に行きました。大きな杉の木を抱き締めて、涙を流して泣いたこともありました。

 飢えた友達に会えば、先生は飢えても彼に食べる物をあげたし、飢えた苦学生に会えば、抱き締めて痛哭しました。彼らに食物がない時には、食物をあげるために学生服を脱ぎ、埠頭で労働をし、石炭の運搬をしました。先生は、そのような若い同志たちを愛するために闘ってきたということを、皆さんは知らなければなりません。

 日帝時代にはみな腹が減っていたのです。それで苦学する人々がいれば、『お前たち、腹が減っているだろう? 私の家に来い』と言って、食券が出てくれば、一カ月分を全部集めて、『食べろ、食べろ。思いきり食べろ』と言うのです。そうして、だいたい三日もすれば、みななくなってしまいます。

 彼らを私の兄のように、私の母のように愛することができる心をもつことができなければ、神様の心情圏に入っていけないことを知ったがゆえに、そのような修練過程を経るために、民族を超えて日本に行ってそのようなことをしたのです。労働現場に通って金をもうけて、私が学費を出してあげた友人たちがいるのです。

 学校に行けなくなった学生を卒業させるために、私が数カ月間学校を休んで、彼らのお母さん、お父さんの代わりのことまでしました。私には夜も特にありませんでした。明け方二時に起きて、そのようなこともしたのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.243〜244)

(15)留学中の帰国

①「先生が韓国に帰るというと連絡が来るんだね『誰それが韓国に帰る』と。要注意人物だ、学生だけどね。先生は普通の人はわからない。」(1965.10.8)

②「先生が日本の帝政時代、こちらから北方に帰るというと、すぐその連絡して『アア、文誰々が帰るから』といってすぐ駅につけばまあ、刑事たちがチャンと迎えに来て『アア、今帰りましたか、アア、お帰りなさい』と、挨拶するような、そういう関係に進んでおったんですね。そして韓国に戻ってずっとおったんですね。」(1974.5.12)

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 次回(12月11日)は「帰国とその後①」をお届けします。


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