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氏族伝道の心理学 29
親への敬拝について

 光言社書籍シリーズで好評だった『氏族伝道の心理学』をお届けします。
 臨床心理士の大知勇治氏が、心理学の観点から氏族伝道を解き明かします。

大知 勇治・著

(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)

第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決

親への敬拝について
 私が、最初に親に対して行ったらいいと考えている方法は、「큰절(クンヂョル)」です。韓国語で、「크다(クダ)」は大きいという意味で、「절(ヂョル)」は挨拶という意味です。つまり、「大きな挨拶」という意味で、教会で言う敬拝(キョンベ)です。私は、親に侍ることの第一歩として、自分自身の親に敬拝することを勧めている、ということです。

 私たちは日本人、いえ韓国人以外の人たちは、統一教会に来て初めて敬拝するという人がほとんどだろうと思います。ですから、私たちは敬拝を宗教行事だと思いがちです。敬拝の時間がきたら、真の父母様の写真に向かって行う宗教行事として敬拝しています。これは、イスラームが、メッカのカアバ神殿の方角に、一日五回、決まった時間に礼拝(サラーもしくはサラートと呼ばれる)を捧げるのと同じ感覚なのではないでしょうか。

 韓国の人たちにとっての敬拝は、私たちとは全く違うものです。韓国人にとっては、敬拝は自分の親にするものであり、自分の血統の上の人たちに侍る心情を表現する手段なのです。韓国の人は、統一教会に来る前から親や祖父母、親族やご先祖様に対して敬拝をしています。ですから、韓国人が神様や真の父母様に敬拝をするのは、神様や文(ムン)先生ご夫妻が親だとわかったからです。神様や文先生ご夫妻が親だから敬拝するのです。この点が、韓国人と私たちの決定的な違いです。

 私たちは、敬拝というのは、神様や再臨のメシヤである文先生ご夫妻に捧げている、と考えています。神様は創造主で、文先生は再臨のメシヤで偉大な方だ、だから敬拝を捧げる、と考えているのです。ですから、それ以外の人に敬拝をしようという発想がありません。

 敬拝は偉大な人に捧げるのではありません。韓国ドラマを見ればわかると思います。ある歴史ドラマの中で、その国の王子が、国王に対して敬拝を捧げる場面がありました。その時、王子と一緒にいた家臣は、敬拝をしませんでした。王子は、国王だから敬拝をしたわけではなく、自分の親だから敬拝を捧げたのです。そして、家臣たちは、国王が親ではないから、敬拝をしなかったのです。その家臣たちも、自分の家に帰れば、自身の親に敬拝を捧げることでしょう。敬拝とは、そういうものです。偉大な方だから敬拝を捧げるのではなく、自分の親だから敬拝を捧げるのです。

 もちろん、家臣が国王に敬拝をするときはあります。それは、国の親として立っている国王に対して、子供として侍る心情をもち、それを表現するために敬拝をするのです。ですから、敬拝は子が親に対してするのが基本なのです。

 ですから、韓国人にとっては、神様は創造主で、文先生は再臨のメシヤで偉大な方だから敬拝をするのではなく、神様は創造主で、文先生は偉大な方だというのは知っていたが、親だということがわかった、だから敬拝をしよう、と考えるのです。

 韓国人にとって、親というのは特別な存在です。ですから、お父様も、神様が親だとわかったということが、天倫の秘密を解く鍵だったとおっしゃるのです。神様が親だということがどうしてそんなに重要なのか、それは、韓国人の心情をもたなければわからない世界なのでしょう。

 敬拝の意味がわかっていただけたでしょうか。

 もう一つ、私の友人のある日韓家庭のエピソードを紹介します。その家庭のご主人(日本人)は、ある時、奥さん(韓国人)の実家に行ったそうです。その日、奥さんの弟が、軍隊に行ってから初めての休暇で実家に戻ってくるというのです。せっかく久しぶりに軍隊から帰ってくるのだから、家族皆で迎えようということになり、奥さんの実家に夫婦で行ったそうです。その弟は、軍隊に行く前、いわゆる不良息子で、あまり家にも寄りつかず、親を困らせてばかりいたそうです。その弟が軍隊に行ってどうなったかも、興味があったと言います。

 弟が、帰ってきた時、軍服を着て、髪の毛も短くしており、それ以前ととても印象が違っていたそうです。そして、その弟が、帰ってきて最初に言った言葉は、「お父さん、お母さん、私は軍隊に行ってとても変わりました。私が変わった姿をお父さんとお母さんに見ていただきたいです」というものだったそうです。そして、その弟はご両親に対して敬拝を捧げたそうです。私の友人は、その敬拝を捧げる姿を見て感動し、敬拝の意味を改めて感じることができたと言っていました。きっと、その弟は軍隊に行く前は親に反抗的で、敬拝などしていなかったのだろうと思います。そして、軍隊に行って変化した自分自身の気持ちを表現するために敬拝を捧げました。

 敬拝とは、本来、そうしたものです。

 こうした敬拝の真の意味を理解し、体恤するためには、実際に親に敬拝を捧げるしかありません。そして、親に敬拝を捧げるということは、親を絶対的に受け入れ、肯定することです。親を肯定的に受け入れることができれば、自分自身を肯定的に受け入れることができます。ですから、私は、相談に来る方に対して、自分の親に敬拝を捧げることを勧めているのです。

 以前、ある方からメールを頂いたことがありました。

 その方は教会で献身的に歩んでいた方でしたが、気持ちがとても不安定で大変だ、というので、私のところに相談に来ました。その方にこの成約牧会カウンセリングの内容を伝えたところ、「私の心は不安と怒りでいっぱいです」と言いました。そして、「親子関係の問題であることもよくわかっています」とも言いました。その方は、小さい頃に両親が離婚し、母親に引き取られました。そして、母親と祖母と一緒に住んでいたそうです。そして、その母親と祖母から、いつも父親の悪口を聞かされていたといいます。それで、「父親のことが嫌いで憎んでいたし、同時に悪口を言う母親や祖母のことも嫌いで憎んでいました」と言いました。

 私は、その人に、父母と先祖に敬拝をするよう伝えました。そして、それを実行したそうです。その後しばらくして、その人から一通のメールを頂いたのです。それをご紹介します。(私信なので、内容を一部割愛しています)

 お久しぶりです、××教会の○○です。

 お礼のメールが遅くなったことを、お詫び申し上げます。おかげさまで、少しずつ元気になってきております。

 あれから一日一回、実家の両親の写真に敬拝を捧げるようにしています。

 そして六月二日に、実家に帰り、ばあちゃんに、母親に、最後にご先祖さまのお墓に敬拝をすることができました。

 ばあちゃんに対しても、母に対しても、いろいろ言いたいことが確かにあるのですが、そして、今も変わらず、母も息子の話を聞くよりいろいろ話してくるし、ばあちゃんは特に、昔どうだったこうだったと話してくるので、立場が逆なんじゃないかなぁという思いもあるのですが。

 そんな思いがありつつも、ばあちゃんと母に敬拝を捧げさせていただいたときに感じたのが、過去の出来事や現在の心情はどうあれ『祖父母に、親に、敬拝を捧げる』という行為を通して、親に侍る(過去に対する許しとか、親としての絶対的な肯定とか、敬う)ことができるんだなぁと感じました。

 そして、祖父母を、父母を肯定すると、自己肯定にもつながるんだなぁと、なんとなくですが、実感しています。

 実の親に敬拝を捧げさせていただいてから、大知先生が言われていた、「宗教儀式としての敬拝」と「真の親に敬拝を捧げる」ことに差があると感じるようになりました。

 真の父母様に敬拝をさせていただくときの心情が、少しずつですが、親に敬拝させていただいている感覚になってきているように感じていまして、驚きの変化です。

 今までは、真の父母様を親だと思っていいんだろうかと、よく思っていたのですが、敬拝という行為を通して、親子関係という動かし難い事実があるように感じています。

 父母に敬拝→心情一体になること、というような内容も、聞いてはいたのですが、実感していなかったなぁと思っています。

 敬拝という文化を通して、父母様を父母だと思えるようになるのが驚きですし、とても不足な息子ですが、真の親に敬拝を捧げることができるようになれるんだ、と思いました。

 よく考えると、○○家の先祖の中で、親に敬拝を捧げることができたのは僕が最初だなぁと思いながら、長い歴史の中で、真の親がいなかったんだなぁと、改めて感じさせていただいたり、父母の尊さを感じさせていただいております。

 次は、父親に敬拝を捧げられるように、計画していきます。

 本当にありがとうございます。

 それでは、また。

 もう一つ紹介します。これを書かれた方は、拉致監禁被害者の方で、米国に在住の日本人です。米国での私の講演を聴き、父母に敬拝を捧げたことを証してくれました。(一部略)

 実は私も親に対する恨みが解けた、ということで証したいことがあります。アンビリーバボな体験です。

 私はシカゴで講義を受けたんです。私の場合、親に対して、恨みと恐怖が入り混じってこれを解決なんて、霊界に行くまで無理、拉致問題以前に親子関係は頭の痛い課題でした。大知先生は、「親はたとえ殺人を犯した親であっても敬う対象である。まず、敬拝をしなさい。写真でも結構です」と言われました。

 実体の親になんてとても、できないけど、写真でいいのか……。とだまされたつもりで敬拝をしました。二十年以上会っていない親ですが、捜したら両親の写真が奇跡的に一枚、見つかって、それに向かって毎日、敬拝をしました。形だけでもいいと先生は言っていましたから。

 ……それで、ある日、気がついたことは、親とのいい思い出や、親のいいところがいっぱい思い出されて懐かしくなってきたんです。不思議にも、親とはこんなにも有り難いものなんだとさえ思えるようになり、自分自身も受け入れることができるようになりました、その後、やることなすことなんでもうまくいくようになり、怒らなくなってきました。

 先生は「決して怒ってはいけません」などと不可能なことを言っておられます。

 しかし、これは自分が親との信頼関係を取り戻すと、自然にあらゆることを受け入れやすくなるということです。自分が随分、楽観的な人間になったみたいで、つまらないことで、いらいらせず、何を見ても感謝、ありがたいと思えるのが不思議です。宇宙は、本来、発展するようにできているので、どんなことが起こっても、それは過程にすぎないんですね。霊的秩序を立てる(儒教精神でも親子は絶対)、たったこれだけのことがどれほど重要かということ、また、韓国の文化を相続することが天国生活の基本だということを知りました。

 自分の父母に敬拝を捧げることにより、親子関係が変わり、そして自分自身の心の問題が解決していくこと。さらに自分の親子関係が変わっていけば、真の父母様と私との関係も変化していくことが理解していただけると思います。ですから、ご自身の両親やご先祖様に敬拝を捧げてみてください。まずは両親の写真に敬拝を捧げることから始められたらいいと思います。そして、次の帰省の時には、ぜひご両親に、そして先祖のお墓に敬拝を捧げてください。 

 そして、敬拝を捧げることを第一歩として、親に侍る生活を始めてください。

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 次回は、「『ありがとう』と『ごめんなさい』」をお届けします。


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