2020.11.21 17:00
夫婦愛を育む 140
「愛には犠牲が伴う」、が…
ナビゲーター:橘 幸世
高校生向けの英語練習問題で、オー・ヘンリーの名前が出てきました。
昔読んで感動したことがよみがえり、生徒たちに「知ってる?」と聞いてみますが、ポカ~ンとして無反応です。
ジェネレーション・ギャップを感じるのは常の事ではありますが、良いものは世代を超えて知っていてほしいと願います。
中学の英語の教科書に載っていた「最後の一葉」、若い時に読んだ「賢者の贈り物」、宝塚歌劇団の演目にもなった「よみがえった改心」、いずれも短編ながら、いつまでも心に残るものがあります。
なぜ心に残るのか。
それは、自分を犠牲にして他者を生かそうとした人たちの物語だからではないでしょうか。
その一つ「賢者の贈り物」の内容を、知っている人も多いかと思いますが、かいつまんで紹介したいと思います。
クリスマスを前にして、若いカップルが相手のためにプレゼントを買おうとします。が、生活するのがやっとの貧しい生活で、必死に節約しても買いたい物にとても手が届きません。
夫が大切にしている金の懐中時計に付けるプラチナの鎖を買うために、妻は自慢の美しい髪を売ってしまいます。一方、夫は妻の美しい髪を飾る櫛(くし)一揃いを買うために、その懐中時計を質に入れてしまいます。
両者は、これで相手を喜ばせることができると、高揚した気分で帰宅しプレゼントを見せ合います。
この行き違いで、どちらの贈り物も当面使いようがなくなってしまいましたが、筆者は二人を「賢者」と呼んでいます。大切なものを愛する者のために躊躇(ちゅうちょ)なく手放す二人は、一番大切な愛においてさらに豊かになったに違いありません。
真のお父様(文鮮明先生)は「愛には犠牲が伴う」と語られました。
私などはできれば苦労は少ない方がよいと内心思ってしまいますが、み言(文鮮明先生夫妻の教え)を読めば、その犠牲の先には、それを凌駕(りょうが)する大きな喜びがあることが分かります。
だから、本当の親子、本当の夫婦、本当の兄弟関係が成り立つには、犠牲なる愛の目的の立場に立たなければ、「本当」という名前が成立できないという結論になる。
…犠牲になった親は悲しい立場である。しかし、子供がそれを完全に理解して、それに自分の愛をプラスさせて親に返してやれば、親は犠牲になったより以上、喜ぶというんだね。だから本当の夫婦というものは、共に犠牲になって、相対者と共に行くような立場に立てば、永続的に犠牲の力に加わって愛というものがもとがえされる。(「我らはなぜ苦労しなければならないか」1972年9月11日/『祝福家庭と理想天国(Ⅱ)』より)
真のお父様のみ言を体現したような二人の物語が多くの人の心を打つのは、当然なのかもしれません。