世界はどこに向かうのか
~情報分析者の視点~

アルメニアとアゼルバイジャンの戦闘、「5000人の死者」

渡邊 芳雄(国際平和研究所所長)

 今回は10月19日から25日までを振り返ります。

 この間、以下のような出来事がありました。
 米エスパー国防長官、同盟国に防衛費増額を要請(20日)。教皇、同性間の法的権利を認めるパートナーシップ制度支持表明(21日)。ナゴルノ「死者5000人に迫る」とプーチン大統領言及(22日)。習主席、朝鮮戦争参戦70年演説で「抗米」鼓舞(23日)。イスラエルとスーダン国交正常化(23日)。米国務長官、ナゴルノ停戦に向け両国外相と個別会談(23日)、などです。

 今回はナゴルノ・カラバフ問題を取り上げます。
 10月22日、ロシア・プーチン大統領はアルメニアが実効支配するアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ地域やその周辺で続く紛争(9月末から)について、「(両軍)双方の死者数が2000人を超え、総死者数が5000人に迫っている」と明らかにしました。

 まずアルメニアとアゼルバイジャンがどこにあるのかを地図上で確認してください。そしてアゼルバイジャン領域に挟まれるようにして存在するナゴルノ・カラバフ地域も。

▲ウィキペディアより

 宗教面からみればアルメニア人の多くはキリスト教の正教徒、アゼルバイジャン人の多くはイスラム教シーア派です。ロシアはアルメニアに近く、トルコがアゼルバイジャンを強く支持しています。

 ロシアのプーチン大統領は米国の仲介支援を望んでおり、米国のポンペオ国務長官が10月22日、軍事衝突の収束に向けて両国の外務大臣と面談しました。しかしナゴルノ・カラバフ周辺の複数地域ではまだ戦闘が続いています。

 アルメニアとアゼルバイジャンは1990年代に全面戦争を経験しました。ナゴルノ・カラバフ戦争といわれています。
 民族浄化の嵐が吹き荒れ、約3万人の死者、100万人の難民を生んだのです。そのほとんどがアルメニアの占領地から出たアゼルバイジャン人でした。

 戦争の「背景」について説明しましょう。
 20世紀初頭までさかのぼります。ナゴルノ・カラバフ地域は昔からアルメニア人が住民の多数を占めていました。しかしロシア革命後、後にソ連共産党となるボルシェビキが強制的にこの地域をアゼルバイジャン共和国に編入したのです。

 1980年代になってソ連の統制が緩むと、ナゴルノ・カラバフにいるアルメニア人がアゼルバイジャンの支配に抗議の声を上げ、アルメニアへの編入を求めるようになり、1988年には民族的な対立が激化するようになったのです。

 1991年にソ連が崩壊すると、ナゴルノ・カラバフは一方的にアゼルバイジャンからの独立を宣言しました。その結果、アゼルバイジャン、アルメニアは共にこの地域の領有権を主張して譲らず戦争に突入したのです。

 アルメニアが終盤で優位となり、1994年、ロシアの仲介で停戦が成立し、ナゴルノ・カラバフはアルメニアの実効支配下に置かれることになったのです。アゼルバイジャンは敗戦によって深いトラウマを抱え込みました。

 アゼルバイジャンの人口はアルメニアの約3倍、国の大きさも国力でも格下の相手に負けるという耐え難い屈辱を味わうこととなったのです。
 アルメニアはナゴルノ・カラバフを自国の領土に組み込むのではなく、名目上の独立共和国としたのです。

 今年に入って事態が悪化した原因はやはりコロナ禍でした。
 夏から国境付近で小競り合いが繰り返されていました。コロナ禍で社会のストレスが高まり、経済は破綻寸前。政治家はいつも以上に愛国心を前面に押し出し、互いに相手の攻撃が先だと非難し合い、激化の一途をたどることとなったのです。

 既述のように、トルコはアゼルバイジャンを強く支持してきました。トルコ人はアゼルバイジャン人と文化や経済などの結び付きが強く、一方アルメニアとは長年対立してきました。このままではロシアとの対立へと発展しかねないのです。
 結局、米国が仲介するしか道はないのです。