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創立61周年記念
日本統一運動史 2
日本留学時代①

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立61周年記念として『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』を再配信します。
 創立40周年の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

二、 日本留学時代(1941.4.1〜1943.10)
(1)メシヤとしての深刻な準備
 真の御父様はこの日本滞在期間、メシヤとしての使命を全うされるために、原理の解明のみならず、深刻な真剣なあらゆる体験と研究をされて準備されました。その心の内的世界は神様のみが知る世界であり、その時代を日本で過ごされた御父様にとり、この日本の地は多くの忘れることのできない汗と涙が流され、祈りと決意が込められた地となりました。

1.  御 言

①「私が怨讐の国に行って足を踏み入れたその時から、私は涙まで納めたのです。そこから私の行く道を定めました。私は、日本の名勝地に一度も行ってみることができませんでした。国のない民が、そのような看板の付いた所には行かないというのです。私が日本に行っている時、家からお金を送ってくれなくてお金がなかったのでもありません。日本人が見ているところで、その怨讐の前で、自分の威信と体面を立てようとはしなかったのです。目立とうとはしなかったのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.190)

②「真剣な準備をした。人と会わなかった。1分しゃべれば、その流れた心情を取り戻すのに3週間、3か月かかった。だから語らなかったんだ。語れば流れる。だから深刻な準備をしたよ。…関係を持てば、じゃまになる。心を許せば3週間を失ってしまう。それが内的世界の法則だ。一言の過ちで半年以上も蕩減条件をかけねばならない。勝手に口をきいて話さない。そういう道を越えてきたんだ。だから友達は何も知らない。あまりにも平々凡々で、庶民的であるし、口を閉めたから、誰もわからなかった。」(1981.7)

③「お宅にお世話になりました当時は誰にも理解できない大志を密かに抱いて、天の御旨に対する準備にいそしむ私でありました故、勉強もろくに出来なかったのを憶えております」(三橋家への手紙より)

④「大韓民国の日本統治下において、誰よりも愛国者としての道を行かなければなりませんでした。そのためには、日本を知らなければなりませんでした。日本を知るために先生は日本に渡り、貧民窟から訪ねて行ったのです。」(1986.2.14)

(2)早稲田高等工学校に入学
 1941年春に、真の御父様は早稲田大学附属の早稲田高等工学校電気工学科に、「江本龍明」の日本名で入学されました。

▲早稲田大学正門

▲早稲田高等工学校の同級生と共に(後列中央)

1.  御 言

①「先生は、電気、科学を勉強したのです。科学を勉強しましたが、私の行く道を知っていました。私が科学の勉強をし、電気方面に手を着けたのはなぜでしょうか。大事をしようとするならば、数学的な計算が早くなければなりません。鑑定力が早くなければならないのです。それは見えないものを管理することなので、宗教と通じるということができます。すべての現象世界では、運動するすべてのものに電気現象が発見されるのです。

 今や、現代の科学文明を全部知らずには、今後の新しい宗教理念を立てることができないために、そのような面で勉強したのです。その勉強したことが、相当に助けになりました。先生は頭が数理的です。…私は自分のために勉強はしませんでした。世界を活かすためにという考えをもって勉強したのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.192〜193)

2.  早稲田大学附属早稲田高等工学校の概要

 早稲田大学附属早稲田高等工学校(以下、早稲田高等工学校)は、1928年4月に創設されました。創設者は、早稲田大学総長の高田早苗氏であり、同校の初代校長は徳永重康氏でした。第2代校長は内藤多仲氏、第3代校長は1939年10月、同校建築学科の教務主任の吉田享二氏が就任しました。

 校舎は、早稲田大学附属第二早稲田高等学院校舎を共用し、実験実習は理工学部の諸設備を活用しました。当初は、早稲田高等工学校は、機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科の4学科でしたが、1940年に応用化学科、1944年には航空機科、電気通信科、木材工業科が新設されました。また同年、機械工学科が機械科に、電気工学科が電気科に改称するなど、併せて5つの科が改称しています。

 同校の修業年限は、当初2年間でしたが、1935年には満州事変(1931年)、上海事変(1932年)などを背景に工業界がにわかに活発化し、これに伴う科学技術の進歩に即応するため、修業年限が2年半に延長され、教育の充実が図られました。1939年には修業年限が3年間に改められています(認可は1938年12月)。

 早稲田高等工学校の授業は夜間授業であり、午後6時から9時まで行われました。戦争が始まると、戦争に行く人が多くなった結果、入学する学生数が減る反面、韓国、台湾などの出身者が多く目立った学科もありました。

 早稲田高等工学校が閉校したのが、1951年10月です。したがって、創立から23年間で同学校は幕を閉じました。この期間で同学校を卒業した総数は9219人で、各科の卒業生の総数は以下のようでした。機械科2549人、電気科2434人、建築科1651人、土木科1827人、化学工業科374人、木材工業科138人、電気通信科246人

◇1941年の早稲田高等工学校の学生募集
高等工学校 機械工学科・電気工学科・建築学科・土木工学科・応用化学科(夜間授業 修業年限三年)

一、入学資格  中学校、工業学校、早稲田工手学校卒業者又は之と同等以上の学力ある者

二、出願手続
イ、願書受付 自三月十日至四月二日
ロ、書類物件 入学願書、卒業証明書、各学年成績表、小型写真、戸籍抄本、検定料金参円

三、銓衡   四月四、五日

四、合格発表 四月八日午後五時掲示

◇電気工学科の学科目
修身、国語及作文、英語、ドイツ語、高等数学、応用数学、実用計算、応用物理、応用力学、工業経済、工業簿記、機械大意、電気磁気、機械学、発電用原動装置、電気機械、電気物理、測定法、交流理論、過度現象論、送電配電、発電変電、電気鉄道、電力応用、電気材料、電燈照明、電気化学、電気通信、電気法規、電気工業汎論、計画及製図、実験、特別講義。

◇峰岸嘉重氏の手記
 『早稲田大学百年史 第四巻』(早稲田大学出版部発行)には、早稲田高等工学校の1943年の学生数は、1320人と記録されています。

 真の御父様の1年後輩で電気工学科卒業(電気26回卒業)の峰岸嘉重氏は、早稲田高等工学校生と校友でつくられた稲工会発行会報『稲工』の中で、当時のことを述懐しています。

 「早稲田大学には、他の大学に見られるような正門がない。しかも、私達が在学した頃は常に開放的で地域住民も気軽に往来できた親しみのあるキャンパスであった。私は、これこそ早稲田の校風であり早稲田精神の発露であると信じたいものである。(中略)。同窓生が相次ぎ教室から戦場へと笑顔で消え、破れたガラス窓から吹き込む粉雪にオーバーの襟を立てながら薄暗い裸電球の下で学んだあの頃……」(会報『稲工』NO.77 早稲田稲工会発行 31ページ)

▲早稲田高等工学校事務所入り口

▲早稲田高等工学校の授業風景

▲早稲田高等工学校の校舎

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 次回(10月16日)は、「日本留学時代②」をお届けします。


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