信仰と「哲学」57
関係性の哲学~イエスの愛のいましめとは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「客観的」になり得る能力は文鮮明師においては際立っていました。文師の自叙伝の中に、以下のエピソードが挿入されています。
 文師15歳の時の出来事です。

 「そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。
 『その少年はなぜ死んだんだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか……』
 少年の悲しみがまるで私自身の悲しみのように感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩、泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした」(光言社文庫版『平和を愛する世界人として』65ページ)

 この「能力」の根柢にあるのが心情です。心情は衝動です。他者と一つになろうとする衝動です。心情の豊かさが「客観的」になり得る能力の根本にあるとみることができるでしょう。

 以上の内容と『原理講論』の記述を関連付けて説明してみたいと思います。

 「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである」(『原理講論』50ページ)

 文師が「その少年の悲しみがまるで私自身の悲しみのように感じられて」と述べている部分は、『原理講論』における「主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して」の内容と重なります。

 文師やイエス、釈迦牟尼(シャカムニ)において際立っている能力の根本は、「万有原力」であることが分かります。

 神自身の内にあり、人間をはじめとする被造物の根本にある「万有原力」こそ、全ての存在がよく授けよく受けるために不可欠な相対基準を造成する「力」なのです。
 それは神から付与されている「力」ですが、ほとんどの人間はその力を発揮できないでいると言わなければなりません。すなわち本来の人間の姿(内容)ではない、ということなのです。

 「愛すること」についてのイエスの言葉があります。
 新約聖書のマタイによる福音書第223640節です。

 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

 前号で触れたエーリッヒ・フロムも『愛するということ』(紀伊国屋書店、鈴木昌訳)の中で引用しています。
 その部分は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」の文言です。そしてその解釈を「愛する技術」として述べているのです。

 しかし一番重要な部分は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という内容です。イエスが「これがいちばん大切な、第一のいましめである」と述べているとおりです。
 ここに「万有原力」を発揮することができるか否かの核心があるからなのです。