2020.09.05 12:00
「平和の母」が流した七つの涙 3
【第三の涙】海外宣教師のために流した涙
浅川 勇男
「平和の母」シリーズ第3弾。自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による「『平和の母』が流した七つの涙」をお届けします。
1970年代、文鮮明先生夫妻は世界的に猛威を振るっていた共産主義の国々に宣教師を派遣しました。特に東欧の共産国で行う宣教活動を「ナビ(蝶)作戦」と名付けました。
幼虫がさなぎを経て蝶に脱皮する姿が、苦難に耐えて地下活動をする宣教師に似ていたからです。
共産主義の恐ろしさを知る親たちが許すはずはなかったので、宣教師たちは親に目的地を知らせずに出発をしました。
宣教国に出発する彼らも、送り出す文鮮明先生夫妻も、悲痛な心情で覚悟を固めなければなりませんでした。
「戦場よりさらに過酷な地に旅立つ宣教師のことを考えると、胸が痛み、涙があふれそうになりました」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』146ページ)
文鮮明先生夫妻は彼らのために、切実に激しく祈祷しました。
1973年、チェコスロバキアで宣教師と信徒約30人が一挙に警察に逮捕され、連行されました。5年から10年の懲役刑、さらには死刑宣告を受ける信徒までいました。
その中で、24歳のマリア・ジブナは冷たい監獄の中で花盛りの年齢で命を落とし、共産主義統治下における最初の殉教者となったのです。衝撃を受けて、際限のない悲しみにひたる文鮮明先生夫妻のもとに、彼女は一匹の蝶となって現れます。
「チェコスロバキアの冷たい監獄を抜け出した黄色い蝶は、力を失って座り込んでいる私に向かって、力を出して立ちなさいとでも言うように、羽をひらひらさせました。彼女は、命を懸けた宣教を通して、本当に幼虫から脱皮して蝶になっていたのです」(光言社文庫版 文鮮明先生自叙伝『平和を愛する世界人』194ページ)
韓鶴子夫人は、1980年代初め、監獄に入れられた宣教師から一通の手紙を受け取ります。「地上での最後の瞬間が近づいてきています。この世で差し上げる最後の御挨拶です。天上でお目にかかります。どうかいつまでもお元気でいてください」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』140ページ)
宣教師が処刑される前に書いた遺書でした。
韓鶴子夫人は、衝撃と悲しさで石のように立ちつくしました。天命に殉じて、命をささげる宣教師たちはもちろんですが、宣教の戦場に送り出した真の母の心情も涙に溢れています。
できることなら、自分の命を息子・娘の代わりに差し出したいと切実に思うのが母の愛です。子は母の体から生まれた、母の体そのものなのです。
韓鶴子夫人は、共産主義をはじめとする海外宣教に身を投じた息子・娘たちのために滂沱(ぼうだ)の涙を流した真の母だったのです。
「胸がつぶれそうになるほどの悲しみを抱え、ただ心の中で痛哭(つうこく)するしかありませんでした。それは人類の真の父母として、避けて通ることのできない道でした」(同140ページ)
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