『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ 9

怨讐のために祈る自分のない生活を実践する

浅川 勇男

 「平和の母」シリーズ第2弾。自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」をお届けします。

 神への祈りは、幸福の道を開きます。
 では、誰のために祈るのでしょうか。

 大概は、自分の健康、生活の安定、仕事や人間関係の改善のために祈ります。さらに家族や友人のために祈ります。
 しかし決して祈りの対象にならない人たちがいます。自分を傷つけた、憎らしい人たちです。敵であり怨讐です。

 怨讐のいる人は、幸福にはなれません。

 夫婦が怨讐関係になったらどうでしょう。絶対に夫婦円満は望めません。
 夫がどんなに仕事がうまくいっても、家に帰れば妻という怨讐が待っているからです。
 妻がどんなに楽しいドラマを見ても、夜になると夫という怨讐が帰ってくるからです。

 怨讐とは、自分を傷つけた人です。
 ではなぜ、傷ついたのでしょうか。

 「自分が」という「我(が)」があるからです。我が柱のように立っているからです。

 柱は刃物で傷つきます。「我柱(がばしら)」と言ってもいいでしょう。
 相手の言葉や行動で、自分の「我柱」が傷つけられたので、相手を憎んでいるのです。

 我のある人が誰よりも愛しているのは「自分」です。怨讐をつくり出しているのは、他でもない、自分なのです。
 我のある人は 許せない人、憎む人をつくり出し、自ら幸福への道を遮断します。

 ところがこの世界で我がなく、傷つかないものがあります。
 空気です。人は食事をしなくても、ある期間は生きることができます。しかし空気を吸わなければ、瞬時にして死にます。まさに空気は愛なのです。

 空気には我がありません。空気のおかげで生かされているのに、感謝する人はほとんどいません。だからといって空気は傷つきません。空気のように為に生きれば、我が消滅するのです。

 愛は我をなくします。
 真の愛とは、与えて、それを忘れ、さらに与える愛です。相手を幸せにするために、喜んで与え続ける愛なのです。空気のような愛なのです。

 報いを求める愛には、根底に我があります。それ故、愛の見返りがないと相手を怨讐にしてしまいます。

 真の愛は、与えて自分を誇るのではなく、不足を恥じる愛なのです。

 自分の我が怨讐をつくり出しているので、「自分がある生活」をしていたら、怨讐のために祈ることはできません。

 「平和の母」は語られています。
 「怨讐の顔を見ながら、そこに神様の顔を見いだそうという努力をしていない限り、実行できないことです。怨讐を怨讐として考えず、むしろその人のために祈り、許すこと。これは、『自分がない生活』をしていてこそ、可能なことなのです」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』300ページ)

◆ ◆ 

▲自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』(ソフトカバー)の商品ページはコチラ!