2020.08.13 17:00
『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ 9
怨讐のために祈る自分のない生活を実践する
浅川 勇男
「平和の母」シリーズ第2弾。自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」をお届けします。
神への祈りは、幸福の道を開きます。
では、誰のために祈るのでしょうか。
大概は、自分の健康、生活の安定、仕事や人間関係の改善のために祈ります。さらに家族や友人のために祈ります。
しかし決して祈りの対象にならない人たちがいます。自分を傷つけた、憎らしい人たちです。敵であり怨讐です。
怨讐のいる人は、幸福にはなれません。
夫婦が怨讐関係になったらどうでしょう。絶対に夫婦円満は望めません。
夫がどんなに仕事がうまくいっても、家に帰れば妻という怨讐が待っているからです。
妻がどんなに楽しいドラマを見ても、夜になると夫という怨讐が帰ってくるからです。
怨讐とは、自分を傷つけた人です。
ではなぜ、傷ついたのでしょうか。
「自分が」という「我(が)」があるからです。我が柱のように立っているからです。
柱は刃物で傷つきます。「我柱(がばしら)」と言ってもいいでしょう。
相手の言葉や行動で、自分の「我柱」が傷つけられたので、相手を憎んでいるのです。
我のある人が誰よりも愛しているのは「自分」です。怨讐をつくり出しているのは、他でもない、自分なのです。
我のある人は 許せない人、憎む人をつくり出し、自ら幸福への道を遮断します。
ところがこの世界で我がなく、傷つかないものがあります。
空気です。人は食事をしなくても、ある期間は生きることができます。しかし空気を吸わなければ、瞬時にして死にます。まさに空気は愛なのです。
空気には我がありません。空気のおかげで生かされているのに、感謝する人はほとんどいません。だからといって空気は傷つきません。空気のように為に生きれば、我が消滅するのです。
愛は我をなくします。
真の愛とは、与えて、それを忘れ、さらに与える愛です。相手を幸せにするために、喜んで与え続ける愛なのです。空気のような愛なのです。
報いを求める愛には、根底に我があります。それ故、愛の見返りがないと相手を怨讐にしてしまいます。
真の愛は、与えて自分を誇るのではなく、不足を恥じる愛なのです。
自分の我が怨讐をつくり出しているので、「自分がある生活」をしていたら、怨讐のために祈ることはできません。
「平和の母」は語られています。
「怨讐の顔を見ながら、そこに神様の顔を見いだそうという努力をしていない限り、実行できないことです。怨讐を怨讐として考えず、むしろその人のために祈り、許すこと。これは、『自分がない生活』をしていてこそ、可能なことなのです」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』300ページ)
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