歴史と世界の中の日本人
第2回 田内千鶴子・望月カズ
国境を超えた愛に献身した女性たち

(YFWP『NEW YOUTH』153号[2013年3月号]より)

 もう一度皆さまにぜひ読んでいただきたい、編集部イチオシ!なコンテンツをご紹介。
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 韓国の孤児たちを育てた日本人女性がいる。
 田内千鶴子(尹鶴子)と望月カズである。

 田内千鶴子(19121968年)は高知生まれで、朝鮮総督府に勤務した父に従い、1919年、7歳の時から全羅南道木浦市で暮らすようになった。

 1938年、孤児施設「木浦共生園」を運営していたキリスト教伝道師、尹致浩と結婚し、施設を手伝い始めたが、朝鮮戦争の最中、夫は食料調達に出掛けたまま行方不明になった。

 その後、千鶴子は戦争で孤児となった子供たちで500人にも達した園児たちをひとりで抱えることになる。

 彼女は極めて困難な状況の中でも孤児院を維持し、その生涯で約3千人の子供たちを育て上げ、「韓国孤児の母」と呼ばれた。

 56歳の誕生日に逝去したが、木浦市最初となった市民葬には、韓国全土から3万人もの人々が集まったという。新聞は、千鶴子の死を「木浦が泣いた」と報じた。

 望月カズ(19271983は東京で生まれ、父を知らず、4歳の時に母と満州に渡ったが、その母親は2年後に死亡。
 天涯孤独となったカズは農奴として転売されながら大陸を放浪した。

 終戦とともに帰国するが、身寄りもなく、再び満州に渡ろうとした。
 しかし、北緯38度線を越えることができず、朝鮮戦争に巻き込まれることになる。

 銃火の下を逃げ回るカズの目の前で一人の韓国人女性が胸を撃たれて倒れた。その腕の中には血まみれの男児がいた。
 カズはその子を見捨てることができず思わず抱き締めたという。

 カズはその後、生涯に123人の孤児たちを養育し、「38度線のマリア」と呼ばれた。

 二人の偉業は名誉あるさまざまな賞とともに、望月カズの生涯は映画「愛は国境を越えて」(1965に、田内千鶴子の生涯は映画「愛の黙示録」(1995となって歴史に刻まれている。

 千鶴子は韓服のチマチョゴリ姿で暮らし、カズは和服にモンペ姿で通した。

 孤児を育てるに至った背景と事情に違いはあるが、二人は国と民族を超えた愛に生きた、後世に誇るべき歴史と世界の中に輝く日本人であった。

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 次回(8月13日)は、「ブータンで最も尊敬される日本人」をお届けします。