『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ 4

ためらいなく与えて忘れる

浅川 勇男

 「平和の母」シリーズ第2弾。自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」をお届けします。

 一般的に、愛は与えること、尽くすことであり、幸福を結実することである、といわれています。
 しかし与えて尽くした結果、憎しみや怨みが生じ、不幸をもたらす場合があります。

 スーパーのレジに並んだ買い物客と憎み合うことはありませんが、家にいる家族と憎み合うのです。愛しているはずの夫婦、親子、嫁姑(しゅうとめ)間で争いが起こるのです。

 「愛憎」の言葉のように、愛と憎しみは紙の表裏のように深くつながっているようです。
 愛は、与えることです。では、なぜ与えたのに憎しみに転換したのでしょうか。
 それは、与えることをためらったからです。与えることをためらうと、愛に汚れと傷がつくのです。

 なぜ、ためらったのでしょうか。
 自分が大切にしてきたものに執着心を持ち、惜しむ心があったからです。そして相手に貴いものを与えるだけの価値があるかどうか疑念が湧いたからです。

 葛藤して与えたとき、それが心の底に「記憶」として残ります。残存した記憶からは相手への要求心や見返りを求める心が生じます。それが後悔する心となり、やがて憎しみや怨みに転換するのです。犠牲が大きかったものほど、それは強くなります。

 では、この世にためらいなく与えて忘れる、そんな純粋な愛が存在するのでしょうか。

 存在しています。
 母となった女性はその愛を経験しています。自分の生んだ赤子にお乳を与える愛です。母が乳を子供に与える愛は、決して見返りを求めません。与えたことを覚えていません。ためらいも躊躇(ちゅうちょ)もしません。

 飲ませた乳の量をデータとして記録し、お金に換算しておいて物心ついたときに子に請求するという母親はいないのです。乳を飲ませるのは営業ではありません。飲ませた代価を要求することもありません。
 母の子に対する愛は、無私、無償、無条件であり、真の愛なのです。

 韓鶴子夫人は、なぜ「平和の母」と呼ばれるのでしょうか。
 人類をわが子として、無私、無償、無条件で愛を与えるからです。ためらいなく与えて忘れる人だからです。

 それを誰よりも知っていたのが、夫である文鮮明先生でした。
 「妻は自分の結婚記念の指輪まで人にあげてしまうほど情け深い女性です。ぼろを着た人を見れば服を買ってあげ、おなかを空(す)かせた人に会えばご飯を振る舞いました」(光言社 文庫版 文鮮明先生自叙伝『平和を愛する世界人として』223ページ)

 平和の母、韓鶴子夫人は言われます。
 「私は与えるのもためらいなく与えますが、与えると同時に、そのことを忘れてしまいます。自分が持っている物を与え、愛を与え、さらには命まで与えても忘れる人が、神様の一番近くに行くことができるのです」(韓鶴総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』186ページ)

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