愛の知恵袋 121
日本パラリンピックの父・中村裕(下)
(APTF『真の家庭』242号[2018年12月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

障がい者が働ける職場をつくりたい

 東京パラリンピックに参加した外国人選手達は行動が活発で、競技が終わると車椅子で銀座に出て買い物を楽しんでいた。彼らはみな職業を持ちお金も持っていた。しかし、日本の選手達はほとんど病院や療養所から来ていて、買い物をする余裕もなく寂しく病院へ戻っていった。

 中村博士はこの違いにショックを受け、「何とか障がい者に職業を持たせたい」と考えた。

 当時は、国立別府病院で中村の治療をうけ機能訓練を終えた者でも、どこにも就職できず、家に帰ってもお荷物扱いにされ、「治療が終わっていないことにして病院に置いてほしい」と泣きついてくる家族も多かった。また、中村が園長を兼ねていた別府整肢園では、預かっている肢体不自由児が18歳になって退園しても、就職できるのは10%以下で、残りの人たちは生活保護を受けて生きていくしかないという状況であった。

 「だから、障がい者が働ける職場をつくる!」という新たな目標への中村の挑戦が始まった。この時、中村の良き理解者であり協力者になったのが、作家の水上勉氏であった。水上氏には一生歩けないだろうと言われていた娘さんがあったが、中村が手術とリハビリで歩けるようにしたことがきっかけになり、以来、親しく交流する間柄であった。

 ちょうど売りに出ていた小野田セメントの診療所を買い取りたいのだが、その資金がない。そこで中村が自宅を担保にして200万円を借り、水上氏が『婦人公論』連載中の「くるま椅子の唄」の原稿料100万円を出して手付金をつくってその建物を購入した。

 こうして、1965年(昭和40)、「社会福祉法人・太陽の家」が創設された。“太陽の家”は日本で最初の「身障者がそこで働き、賃金を得て自立を目指す職場」であった。

太陽の家に企業団地をつくる

 最初はカゴ等をつくる竹細工から始まり、次に、早川電機から電気ゴタツのやぐらをつくる木工仕事をもらい、汗と木くずだらけになって働いた。初期は賃金もスズメの涙、宿舎は雨漏りがする、そんな中で必死に働いた。そして、中村が自分の資産を担保にしてお金を借り、さらに、水上勉氏、評論家の秋山ちえ子さん、「あゆみの箱」募金の伴淳三郎氏など多くの人の応援によって、1971年(昭和46)、遂に、鉄筋6階建ての「太陽の家本館」が完成した。この福祉工場に入ってくれる企業を探すため、中村は地元企業をはじめ、立石電機、ソニー、ホンダなど多くの経営者を訪ね、粘り強く交渉した。やがてその熱意が実りをもたらした。1966年の(株)電子印刷センターの設立から始まって、オムロン太陽(株)(72年)、ソニー太陽(株)(78年)、大分銀行太陽の家支店(80年)、ホンダ太陽(株)(81年)、三菱商事太陽(株)(83年)、(株)大分タキ(90年)、ホンダR&D太陽(株)(92年)、富士通エフサス太陽(株)(95年)と続いている。

 全て企業と太陽の家の共同出資会社であり、生産技術や運営・管理を企業が担当し、従業員の健康管理や日常生活の支援を太陽の家が行うというユニークなシステムである。このシステムの全国展開こそ中村の夢である。85年には、愛知県に「愛知太陽の家」とデンソー太陽(株)が設立され、京都でもオムロン京都太陽(株)の設立と共に「京都太陽の家」が開所している。

 ここで働く人達は、みな生き生きとしている。自分で働いて給料をもらい、税金を納め、社会人として自立しているという誇りがある。結婚して家族を持つ人もたくさんいる。

アジア・太平洋諸国に、この輪を広げたい

 一方、世界に向けても中村の挑戦は続いていた。一つは、1975年に第1回大会を開催した「フェスティック大会」だ。未だパラリンピック会場に選手を送れないような国々にも障がい者スポーツを広めるために始めた、東南アジアと環太平洋諸国のための競技大会である。

 もう一つは、1981年に始めた「大分国際車いすマラソン大会」である。別府と大分を結ぶ「別大国際マラソン」は有名であるが、そこに、車イスでの参加を申し出たが断られたため、世界で初めての「車イスによるマラソン大会」をやろうと決意したのである。以来、毎年秋に開催され、今では数十か国から選手が参加する世界最大の車椅子マラソン大会になっている。

 1984723日。折しもイギリスで開催されていたストークマンデビル競技大会の会場に、「中村裕博士死す」の一報が届いた。会場は驚きと悲しみにつつまれ、翌日の競技は中止され、参加者全員が黙祷をおこない、競技連盟会長が追悼の言葉を述べた。

 享年57であった。通夜のとき、水上勉氏はリビングの床に座り込んでいて、中村廣子夫人が「どうぞもうお帰り下さい」とすすめても動こうとせず、「早すぎた…、早すぎた…、もう何年かあったら…」と何度も繰り返したという。

 オーストラリアのジョージ・ベットブルック氏は次のような追悼文を寄せた。

 「私達は彼を忘れることはないだろう。世界中、特に長年多大な援助をしてきたアジアの人々の思い出の中で、中村裕は生き続けるだろう。オーストラリアには彼と親交のあったリハセンターも多く、そこの医療スタッフやたくさんの友人たちの間で、彼の名は不滅のものとなるだろう」

(参考文献:「証・太陽の家と共に」太陽の家企業会発行)