2020.04.06 17:00
信仰と「哲学」45
関係性の哲学~「死への投企」と良心の力
神保 房雄
「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。
既に記しましたが、文鮮明先生が「すでに死んでしまったものと思いなさい」と言われたのは、人間の良心についてであり、良心の力の強さを強調したものでした。そしてその力は死を克服できるものであることを強調したものだったのです。
自分自身を死へと「投企」した人間の強さを描いたノンフィクション作品があります。
『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫 門田隆将著)です。
同書は最近映画化されました。
内容は、2011年3月の東日本大震災、特に大津波による福島第一原発事故を扱ったものです。原子力発電所の中心部分である原子炉格納容器が爆発するかもしれないという最悪の事態に直面し、それを回避するために主導で弁を開けようと闘った男たちの「心と行動」が記されているのです。
著者の門田氏は記しています。
「暗闇の中で原子炉建屋に突入していった男たちには、家族がいる。自分が死ねば、家族が路頭に迷い、将来がどうなるかもわからない。しかし、彼らは意を決して突入していった。自衛隊の隊員たちも、自分たちが引き起こした事故でもないのに、やはり命の危険をかえりみず、放射能に汚染された真っただ中に突っ込んでいった」(p.468)が、どうしてそんなことができたのかを知りたかったというのです。
そして、次のようにつづっています。
「その時のことを聞こうと取材で彼らに接触した時、私が最も驚いたのは、彼らがその行為を『当然のこと』と捉え、今もってあえて話すほどのことでもないことだと思っていたことだ」(同)
さらに、「事故の復旧ための第一の働きをすることになる消防車と共に真っ先に福島第一原発に駆けつけ、復旧活動を展開した自衛隊員は、わざわざ私が取材にやってきたことに、こう驚いていた。『あたりまえのことをしただけです。自衛隊の中でも、あの時の私たちの行動は、いまもあまり知られていないんですよ』」(同)
「死」へと自らを「投企」した人の行動は、頽落(たいらく)の中にある世人(せじん)にとっては「驚くべきこと」ですが、当人にとっては「当然のこと」であり「あたりまえのこと」だったというのです。
世人と、自らを「死に向かって投企」した人との違いは、良心の力に支えられているか否かの違いです。良心の力が作用する時、人間には本来性が備わります。そして世人にとって驚くべきことを当然のこととして超えてしまうのです。
文先生の教えをこのように理解しました。
知人や親族の死を考えることや漠然と死を意識することは自分自身の死ではありません。「すでに死んでしまったものと思う」=「死への投企」は自分自身の「死」をはっきりと意識することです。そして「死への投企」は、他者のために生きる真の愛の力、良心の力が生じる必須の要件なのです。